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手続記憶

弦楽器を弾く人間がよく口走るフレーズとして、「ピアノなど簡単だ。正しい時刻に正しい鍵盤を叩けばいい」というのがある。(管楽器に関して言われることすらあり、弦楽器奏者特有の表現のようである。)「簡単と思うなら弾いてみろ」というツッコミは当然あるだろうと思うが、その一方で私のバイオリンはいつも「初見で何でも器用に弾くが、音質に問題あり」と評されてきたので、このフレーズを聞くたびに微妙な心境になる。

 

今回なぜそのフレーズを思い出したかと言うと、実は先日いま通っているチェロ教室の発表会があり、その発表会のためにわざわざ作った自作を弾いたのだが、モロに上がってまともに指が回らず、コケまくってしまったためである。あわよくば当ホームページのギャラリーに初の(MIDIではない)ナマ録音源としてアップしようという目論見もあったのだが、見事に砂上の楼閣に終わった。

 

上に述べた通り私のバイオリンでの得意技はどちらかと言うと「音符を機械的に弾くこと」で、これは自分が「作曲する人間」すなわち音符第一主義人種であって、後は楽器の上手な人が綺麗に弾いてくれればいいという一種無責任な意識ゆえかもしれない。しかしながら今回は自分で弾かなければならないうえに、楽器がチェロで、自分のチェロ歴(4年)を無視して指が回る必要のあるような曲を書いたこと自体、若干無理があったな~というイメージだ。

 

しかも、そういう「音符をチョコマカと弾く」ことの音楽における重要性は論議のあるところである。フランスの名優サラ・ベルナールがレストランのメニューを朗読して周りの者を感涙させたとか、バイオリンの名人が単音や音階練習を弾いただけで聴衆を感動させたとか、そういう伝説は結局、文章とかメロディとか、作品の「構造」に属する部分を取り払ってもなお「素材」だけで十分に人を惹きつけることができるということを主張しているわけである。私の腕前には縁のない話だが、そういう話からすると「正しい時刻に正しい音を出す」ことなどは、わざわざ人間がやらなくてもMIDIのような機械に任せておけばいいということになるかもしれない。

 

私は作編曲するときスケッチは手書きするが、その後は写譜ソフトに直接入力しながら作り込んでいる。少しこみ入った音を書いて頭の整理がつかないときは、すぐプレイバックして確認することができるのが機械のありがたさである。相手は機械なので、人間では演奏不可能なややこしいフレーズを書いても「正しい時刻に正しい音を」出してくれる。そういうのに慣れてくると、もう作曲も編曲もAIにしてもらった方が早いと感じるのは自然の成り行きである。

 

言うまでもないが、機械ならぬ人間にとって「正しい時刻に正しい音を出す」ことは簡単ではなく、場合によっては超絶技巧として高く評価されるものである。それは一般には運動能力、特に敏捷性の問題として捉えられているだろうと思う。ところで、私は昔から野球とかテニスとか、咄嗟の対応が必要な球技が苦手で徹底的に敬遠してきたのだが、これらは飛んで来た球のコースを一瞬で見分けてそれを適切な場所に打ち返すゲームである。こういうことができる人は「運動神経がいい」と言われるが、それからすると私などは「スポーツ音痴」の典型である。ところが一方で、楽器の演奏において私は上記の通り「指は回る(ただし音が良くない)」という評価をもらっているし、リズム感も他人に劣らないと自負している。このようなスポーツと音楽における「運動神経」の違いは何を意味するのだろうか、というのがここでの疑問である。

 

よく聞く話に、野球でバッターは投手が投げたのを見てから打球動作に入ったのでは必ず振り遅れるというのがある。つまりバッターは投手の投球フォームを見て、ボールが投手の手を離れる前にバットを振る準備に入るというのだが、こういう動作においては認知とか判断とかいう過程はほとんど省略され、情報処理はいわゆる「反射」によって行われている部分が大きいだろうと想像される。これが機械であれば、入力された情報を一瞬のうちに計算し結果を出力するのだろうが、多分人間にはそういうプロセスを頭の中で実行する余裕はない。人間の中には複雑な計算よりも「パターン」が埋め込まれていて、球が飛んでくる個々のパターンに対してどのようにバットやラケットを振れば球に当たるかがある程度確立している。選手は日々の猛練習によってそのような無数のパターンを蓄積し、それを反射的に使えるように体を調整していると言える。当然ながら「運動神経」「反射神経」が優れているとみなされるスポーツ選手であっても、何の準備もない状況から咄嗟の対応ができるわけではない。ましてや私のようにそもそもその種の球技を毛嫌いしている人間は、練習によって「パターンの習得と蓄積」に至る可能性がないことは明白だ。

 

これは楽器の演奏にも当てはまる。音楽において個々の「正しい音を正しい時刻に」出せば曲が演奏できるかと言うと、それはMIDIのような機械の仕事であって、人間の「演奏」という行為とは全く無縁であると言える。人間の音楽の演奏は、例えばメロディであれば個々のCとかDとかいう音を出しているのではなく、ドレミという一連の音の組み合わせをメロディという一つの塊として把握し、そのような個物化されたパターンを積み重ねることによって曲を作るという作業である。だから楽器の練習というものは、音階練習でいろいろな音が出せるようになったら、それらの音を決まった順に出せばあらゆる曲が弾けるわけでないのはもちろんだ。フレージングとアーティキュレーションが音楽の演奏に重要であると言うのは、まさにそれが音楽の構造を理解することだからである。

 

ピアノの基礎練習は「ドレミファ」「ドミレファ」「ドレファミ」といった無味乾燥なフレーズを延々と繰り返すのだが、これは「指の柔軟性を高める」ものであると同時に、いろいろな音型のパターンを指に覚えさせるという効果がある。弦楽器や管楽器でも個々の音の出し方だけでなく「この音型ならこの形」という風に、個別のパターンに対して手や指の形を覚える必要がある。一方、子供向けの各種教本はいろいろな「曲」を練習させることによって子供の興味をつなぎながら、そういう曲を演奏することによって一般的な音楽の構造を習得させ、音型のパターンがどういう音楽の構造に使用されるかを教えるわけだ。このようにして、頭の中の音楽の構造と指の運動性とが連携できるようになれば、音楽のスムーズな演奏が可能になる。

 

すなわち、音楽の演奏はまず頭の中に音楽の構造ができ、それにしたがって配置された音を出す練習によって身体が特定の運動を覚え、頭の中の構造と身体の運動パターンがきちんと対応することで、頭の中にある音楽が身体に自動的に反映され演奏ができるものである。こういう「楽器の弾き方」の習得は、いわゆる「手続記憶」の典型的なパターンである。手続記憶は「非陳述記憶」の典型で、「口で説明はできないが身体が覚えている」という類のものを言う(自転車の乗り方などがよく例として挙げられる)。手続記憶は習得に時間がかかるが、一度覚えると忘れにくいものであると言われる。私はバイオリンを弾かなくなって久しいが、先日チェロに限界を感じて久しぶりにバイオリンを取り出したら、30分ほどの練習でまずまずの音が出るようになった。手続記憶は決まったパターンで処理をするためのものであり、逆に処理中に雑念が入ったりすると手続がうまく進行しない(今回の私の発表会での演奏も、まあその類である)。

手続記憶(Wikipedia)

 

このように、音楽が演奏できるということは単に特定の音が出せることではなく、「音楽の作り方」が分かっていることがポイントである。私は先に述べたように咄嗟の対応の必要なスポーツが苦手なのだが、バイオリンの初見や即興は得意技で、これなどはまさに咄嗟の対応ではないかと言われるかもしれない。しかし初見というものは反射神経の鋭敏さの問題以上に、楽譜内に様々な音楽のパターン(多くはすでに経験済みのもの)を発見する行為である。また即興は一見その場で一から作曲しているように見えるかもしれないが、天才作曲家以外は実はすでに頭の中に蓄積されたフレーズの組み合わせであることが多く、その組み合わせをすでに身体が記憶している運動の形態によって反射的に演奏するのが普通であると思われる。すなわち、即興演奏はかなりの部分が練習によるフレーズの蓄積で成り立っており、そのようなフレーズの記憶は身体の動きが「音楽の作り方」に対応していることによってはじめて発生するものである。

 

これは、先ほど少し触れたAIによる作曲にも関連する話である。人間がどのように音楽を分節し、その特性に応じた構築を行ってきたかをAIに教えて、その通りに曲を作ることは当然可能であり、電卓が筆算を駆逐したように凡百の楽曲を大量生産するシステムが生まれても全く不思議はない。しかし新たな分節の形態とその構築を創造することはAIには全く必然性がない(機械というものの本質に反する)。「偶然性を導入して新たなものを作らせる」ということは当然考えられるのだが、それを評価しなければならないのは人間なので、これは何ら事態を前進させるものではない。つまりAIには凡人の即興演奏同様「パターンの累積」以上のことはできないのである。

 

そのように考えると、こういう「個物」としてのフレーズを形成しない音楽、例えば20世紀に一時流行した音列技法によるものなどは、演奏が相当むつかしいであろうことが容易に想定される(それでも演奏する人がいるのはすごいと思うが、多分演奏者の心裡では何らかのアーティキュレーションが行われているのだろう)。ゲーム機で「ダンスダンス・レボリューション」とか「太鼓の達人」とかいうような、指示されたリズムをその場で直ちに実行するようなものがあるが、これなどもまさに機械のような「咄嗟の反応」を要求しているように見える。しかしながら、それらの商品名(「ダンス」とか「太鼓」とか)が示すように、これらのゲームで要求される楽譜は、一種の「音楽的リズム」「身体的リズム」のパターンにある程度従っていることが予想される。逆にもしそれがモグラ叩きのような完全にランダムな指示であれば、あまりやっていて楽しいという気がしないだろう。

 

結論として、スポーツ選手も演奏者もその技術はかなりの部分「パターンの習得」によって成り立っており、「運動神経」皆無の私が初見や即興の真似事ができるのも、いろいろな音楽を聴いてパターンに慣れ親しんできたことに基づく、ということが言えよう。これは先日のブログで「定型」について述べたことと類似しており、私の考える音楽理解のプロセス、すなわち「音の形式」⇒「分節性の把握/分節の構造の把握」⇒「分節のゲシュタルト化と、そのクオリアの記憶」という流れに沿ったものである。これを逆転させればまさに「演奏」のプロセスになるわけだ。だから、そういうパターンの蓄積がない素人は曲を何度も練習することによって指にパターンを覚えさせなくてはならない、という当然だが厳しい現実になる。

 

それにしても、今回チェロの発表会で弾くことをはじめから意識して作ったにもかかわらず、あがっていたとは言いながらまともに指が回らないのは深刻である。やはり歳には勝てないな~と思う一方、そもそも「チェロを弾く」ということ自体のパターン習得ができていない、すなわち早い話練習不足が祟っているような気もする。その上にさらに「音質の改善」も課題なのだが、今年古稀を迎える身で、老衰するまでにホームページ上で自分の演奏を公開できるようになるのだろうか。今回演奏の公開は断念したが、一応ギャラリーに楽譜だけアップする予定なので、興味のある方は演奏して音源を送っていただければ幸甚です。