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共感覚(2)

前回ブログで、音に色を感じる共感覚「色聴」についての本をご紹介したが、実は私には明確な色聴がなく、当然この問題についても他人事としてしかお伝え出来ない。しかしながら音を聞いて目の前に色が浮かぶわけではなくても、「しいて言えばこの色?」というような感覚はいくつかの音についてはある(本書の研究でも、被験者にそういう人が含まれているようである)。 例えば私にとっては「ド」(あるいはC)はスクリャービンのような「赤」ではなく「白」が連想される。これは多分「ド」=「ハ長調」=「白鍵」という連想が働いているのだと思う(これは音楽家でも結構あるパターンのようだ)。

 

その一方で私には「いろおんぷ」的な色聴感覚もなくはない、という気がする。例えば「レ」が黄色で(「レモンのレ」という連想のおかげも多分にあると思う)、「ミ」が緑(「ミドリのミ」かもしれない)や、「ファ」が橙(「ファンタ」はオレンジ派ではなくグレープ派だが)あたりは何となくしっくりくるような気がする。このようなものを「共感覚」と言っていいのか、あるいは何らかの媒介イメージにより結びついているだけなのかが問題だ。あまりピンとは来ないが「ソ」が青(青い空)、「シ」が白(シロ)も、気持ちは分からなくはない。

 

私に関して言えば、確かに「いろおんぷ」で音楽を習ったことはないが、改めてこの教材を見てみるとおもちゃ屋の店先でいつも見かけるような気もするし、ヤマハ音楽教室で利用されているという話もある。確かにインパクトの強い色彩なので、利用した経験はなくとも無意識のうちに記憶している可能性は十分にあり、本書で「いろおんぷ」の影響を全否定しているのは若干割り引いて考える必要があるように思う。

 

で、改めてこの「いろおんぷ」を見てみると、「ド・レ・ミ・ソ・ラ」はたしかにスペクトルの順に並んでいるようだ。これらの音は俗にいう「五音音階(四七抜き節)」で、本書にも記載がある通りピタゴラス的な上方への五度累積で優先的に登場する音である。特に日本における西洋音楽の受容の過程を考えると、これらの音の対応色が先に決定した可能性はあるような気がする。(五度累積の最初の三音である「ド―ソ―レ」が「減色混合の三原色」で、長三和音の「ド―ミ―ソ」が「加色混合の三原色」であるあたり、これらの音と色に対する特別な意識がありそうである。)そこで、これらから除外される「ファ」と「シ」を見てみると、いずれもスペクトルの順とは齟齬しているのだが、それはこれらの音が「傾向」でなく「対比」という性格付けから選ばれているということではないだろうか。

 

考案者のたなかすみこ氏の著書も読んでいないので保証の限りではないが、「ファ」は「ミ」とも「ソ」とも明確に違う、認識しやすい色が選ばれている、ということではないかと私には思われる。「シ」も同様で、特にこの音には「導音」という強力な機能があり、「ド」との差異を日本的な「紅白」という対比で示す必要があったのではないか、というのが私の想像である。そう考えると、このディアトニックな音階の中で「ミ―ファ」と「シ―ド」という半音が絡む場所だけにこういう「対比」が使用されていることは示唆的であるような気がする。すなわち、「いろおんぷ」の色は単に高さの順を表すのみでなく、個々の音を明確に認識させるために決定されている。

※なお、「いろおんぷ」は現在教育用に鍵盤に張り付けて使用されているようで、そのため「シ」に白を配すると鍵盤の色と区別がつかないため、ピンクが使用されているようである。そうすると「ド」の赤との区別が弱まり、この「半音」を明確に区別しようとする意識が若干低下するのではないかと懸念する。

 

どうも話が「いろおんぷ」の方に逸れてしまったが、私が色聴の実験結果に感じるのは、各被験者がドレミを「それぞれの音に対する感覚で選んでいる」のではなく「一つの体系として選択している」ということであり、それは「いろおんぷ」の音の配色にも言えるのではないか、ということである。本書において著者は「バーリンとケイの法則」という普遍性を強調する理論を援用するが、それがもし普遍的なものであれば、近代西洋音楽が受容されている世界どこの国でもこのような結果が出るはずであり、それは今後確認すべき課題である。私としてはむしろ、このような「階名」を一つの体系として整理する場合、個人によってニュートンのように全体を一つの「単純な傾向」としてとらえることもあれば、「いろおんぷ」のようにそこに適宜認識の便宜のための「対比」を持ち込むこともあり、それは個人の趣味や目的によって無意識に決定されているのではないかと感じる。

 

その証拠と言えるか分からないが、リムスキー=コルサコフとスクリャービンという二大色聴作曲家が指定する色にはかなり差異があり、これらから一般的法則を見出すことは難しそうだ、という事実がある。スクリャービンが指定する色は五度圏に沿ってスペクトル順に指定されており(Cから遠い辺りはかなりあいまいだが)、それに対してリムスキー=コルサコフのものはより音の間の「対比」を重視しているように思われる。

レオニード・サバネーエフ「音と色彩の相関関係について」(1911

 

そこで、なぜ色聴というものが存在するのかということに立ち返ると、さらにその前になぜ「CDE」が「ドレミ」なのかという疑問を考えてみたいと思う。もちろんこれは11世紀にグイード・ダレッツォが「ヨハネ賛歌」の歌詞に当てはめたという歴史があるのだが、「ドレミ」が何かの傾向で統一されているわけではない。しかし改めてこれを見てみると各子音が「URMFSL」(当初は6音しかなく、DoUtだった)であって、それなりにうまく配分したものだと感心する。またそれゆえに今日まで使用されているわけである。

※「ヨハネ賛歌」のメロディは実は本人が作ったものだという説もあるようだ。

 

私には以前のブログに書いたように、無くもがなの「絶対音感まがい」があって、音楽を聴くと自然とその音名が頭に浮かんでしょうがないのだが、これはまさに色聴を感じる人が陥るのと同じ傾向であると言うことができる。私だけでなく多くの音楽を楽しむ人には、音楽の音の構造だけでなく「階名」が構造として確立していると思うが、それを「音名」とか「色」とかに対応させる方式は必ずしも一つではない。「音名」で言えば、それは「ドレミ」でも「イロハ」でも、インド式の「サリガマパダニ」でもいいのだが、それぞれが各音を識別する何らかの「体系」を成しているということが言えよう。

 

このように「音」に本来的には何の関係もない感覚や情報が付着することは、「音楽音」の抽象的な性格に由来するものである。「色」や「形」は今回のように「音」と関連付けられることもあるが、通常は世界の「物」を指示する機能があり、赤くて丸いものがあればそれは「リンゴ」であると分かるようになっている。「音」であっても「言語音」は概念との関連付けが前提であり、逆に概念との関連性を絶たれた「その他の音」こそが「音楽」であるということができる。このようにして、「音楽音」は音以外の情報と本質的な関係がなく、むしろそれゆえに他の様々な要素と簡単に結びつくことができ、それが音楽形式の認識を支えている。すなわち、「音の形式」はその抽象性ゆえに様々な認識のための支援を必要とし、それが共通の理解の基盤となるように「定型」が成立する、というのが私の音楽に関する一貫した考え方なのだが、「色聴」もやはりそのようなものである可能性が高いと思うのだ。すなわち、共感覚は脳の特殊な遺伝的構造などに起因する部分もあるかもしれないが、それ以上に、音と何かを結び付けようという一般的な精神的傾向が色彩に向かって発現したものだというのが、私の考え方である。

 

そうすると、「ドレミ」も色聴も、いずれも一定の音楽構築原理の存在を前提としていることがわかる。「ドレミ」はとりもなおさずディアトニックな音階(全音階)を前提としたものであるし、「いろおんぷ」もまさにそのようなものである。先のブログで、「絶対音感」が結局は「ピアノの白鍵」の聞き分けを目指しており、それは相対音程の聴取を妨げるものではないか、と言う話をご紹介した。同様に「いろおんぷ」もひたすら全音階の把握のために創造されたものであることを考えると、そこには何らかの功罪が存在するのかもしれない。

※このような功罪はともすれば過大に問題視されがちであるが、自分の経験からすると、実際にはいろいろな音楽に慣れ親しんでいくと自然に解消していくものではないかと思う。

 

ところで、先に出てきたリムスキー=コルサコフとスクリャービンだが、二人の音と色の対応を見ているといずれも十二音階による対称性のある体系であって、先に検討した「ドレミ」という非対称な系列とは異なっている。かついずれの場合も「調」との対応であって、特に前者は「長調」が指定されている。そうすると、これらに関する共感覚は「絶対音程と連結した調」との対応である可能性が高い。しかしそれにしては、いずれの体系でもハ音~ホ音あたりが一番明瞭な(一般的な)色との関係を示している。シャープやフラット系の調になると「黒みを帯びた」(リムスキー=コルサコフ)とか「金属的な」(スクリャービン)とか、あまり「普通の色」と言う感じがしなくなる。

 

これはとりもなおさずこれらの「調」と「色」の対応が、「調」が与える(と考えられている)情緒・状況などと関連していることの証左であり、シャープやフラットの多い調が楽曲において稀にしか使用されないことを反映していると考えられる。(現に、スクリャービンの「プロメテ」の調と色の対比図には、それと対応する情緒が併記されている。)実のところ私は絶対音程で指定される「調」が詳細なクオリアの違いを与える可能性は考えにくく、それは多分「楽器」の性格に規定されるか、あるいは場合により「楽譜」の与える印象(シャープ系とかフラット系とか)による可能性すらあると考えている。

 

しかしながら、先に述べた通り抽象的な音というモノを扱ううえで、このような各種の「認識の支援」は必須のものであり、(私には色聴はないので共感はできないが)これらの音楽家の頭の中では完全に音と色が一体化している(音と「ドレミ」が一体化するように)のだと思う。彼らの頭の中では音とともに色が乱舞しており、色に導かれて作曲する可能性もありえなくはないような気がする。下記リンクに掲示したスクリャービン「プロメテ」のスコアを見ると「光鍵盤」が2「声部」設定されており、一方は曲のバス・ライン等をなぞっているのだが、もう一方は保続音(保続光?)を奏しており、曲の形式が「色の変化」によって分節されている印象がある。そういう意味でこの曲は「双方向的な」総合芸術なのかもしれない。

スクリャービン「プロメテ」より。一番上に「luce」と記載されているのが光鍵盤

 

結論的に言えば、世界中で「バーリンとケイの法則」+「近代和声理論」から成立する色聴の傾向が成立するかは若干疑問があり、色と音の関係は個人的なものでその個人の頭の中にある音や調の構造と色彩に対する感受性がそれを決定しているという、あまり面白いとは言えない事実が出てくるのだろうと思う。しかしながら、色聴のような一種の「思い込み」が音楽にとって極めて重要であることには疑問の余地がない。特にそれが何らかのルールを持ち、社会に共有される要素がある場合は、音楽の認知に大きな意義を持つことになる。例えば「長調」が楽しく「短調」が悲しい、というような「思い込み」は、音楽の受容にとって極めて重要である。

 

 

私の考えでは色聴のような共感覚は結構どこにでも転がっているものであり、それは基本的には純粋に個人的感覚なのだが、「いろおんぷ」のようにある程度一般化されるケースも存在する。しかし逆にこれを拡大して音の認知において様々な共感覚が成立することを考えることもまた非常に興味深いと思う。(音名でない)絶対音高、音量、和音や和声、音色などと、色その他の感覚との共感覚はあり得ないのだろうか。そういうものを梃子にして新たな音楽の構築が行われることは素晴らしいことだと思うし、期待すべき可能性は十分あると考えている。