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共感覚(1)

音楽と関連して、一般向けながら興味深い本を見つけたので、今回はそれをご紹介する。

 

「ドレミファソラシは虹の七色?-知られざる『共感覚』の世界」 伊藤浩介著 光文社新書

 

「共感覚」という用語になじみのない方もおられるだろうが、これは要するに本来関連性のない(と考えられている)二つの感覚の間に対応を見出すという心理的傾向を言う。この本にはさまざまな共感覚の例が挙げられているが、特に多数の要素を「色」に当てはめるというケースが多い。そもそも日本語でも多数の要素が存在する状態を「いろいろ」と呼ぶ。これはスペクトルというものの本質を利用したものであり、例えばアルファベットと色の共感覚の存在については学問的に立証されているらしい。ほかにも「情熱的な赤」とか「清楚な白」のような、共感覚と言うよりは感性による観念連合のようなものもあると思われるが、ここで問題になっているのは「色聴」、すなわち「音に色を感じる」という傾向である。

 

音楽家の伝記などでよくこの色聴の話を聞くことがある。リスト、リムスキー=コルサコフ、シベリウス、メシアンなど、音楽史上音に色を感じたとされる音楽家は枚挙にいとまがないが、特にスクリャービンの「プロメテ」に用いられた「色光ピアノ」のアイデアが特筆される。この機械は音楽の進行に伴い舞台を様々な色の光で照らし出す装置であり、音楽の旋律と光の推移が並行しているのが注目される。

 

私に関して言えばこういう「音に色を積極的に感じる」ことはほとんどなく、「かなり怪しい系の話」であるという認識だった。この本の著者にもやはり色聴はないらしい。非常に特殊な感覚であると考えがちであり、大部分が何かの錯覚と考えられてきた時期もあった由であるが、現在では通常人の数%ぐらいが何らかの形で共感覚を持っているのだということが、厳密な実験によって明らかになっているのだという。しかも音に色を感じるだけでなく、色に音を感じるケースすら存在するらしい。

 

著者もこのような共感覚の存在にかなり懐疑的だったことを告白しているが、そういう疑念は著者の娘が誰に教えられたともなく色聴の持ち主であったことで覆される(ちなみにもう一人の娘には共感覚はないらしい)。そこから著者は実際に共感覚の存在と、それが何ゆえに発生するのかを研究することになる。

 

さて、この「共感覚」について誰しもすぐに思いつくことは、いったい音の「何が」色と対応しているかだろう。こういう対応についてはいろいろなパターンが考えられると思うのだが(本書にもそういう経緯が記されている)、私が思い浮かぶのは次のようなパターンである。

① 色と「調」の対応。この場合、色と調の関係は調と情緒・状況(「英雄」とか「悲愴」とか)にも反映していることが多いように思う。私個人の考え方としては、こういう情緒や事物との関係は、実際には「楽器」の性質にかなり影響されていると思われる。

② ある意味上記①の前提としての、色と「絶対音高」の対応。これにも単純な「高い音は白・低い音は黒」とか、「442HzのA(音名)は青」とか、いろいろなレベルが存在すると思われる。

③ 色と「階名」(ドレミ)の対応。

 

ところで、この著者は「絶対音感」の研究者でもある。「絶対音感」については以前のブログでも取り上げたようにかなり個人の特殊性のある感覚であるのだが、著者はそのことを認識したうえで、色聴のテストを行うのにあたって「ある音を提示してその色を言わせる」のではなく、「『ド』に対応する色はどの色か」と質問して色相表の上でその色を指定させるという形をとっている。すなわち、これは「階名」にどのような色が対応するか(上記の③)のテストであることを示している。これは「絶対音感」の有無とは関係なく、対称性のない「階名」という、ほとんどだれもが持っている感覚に依存しているものである。

※もしピアノが白鍵のみというような対称性の高い体系であれば、どこがドなのかすぐには分からない。階名という体系(「ディアトニック」な体系)はオクターブ内の黒鍵の位置の非対称性によって、個々の音の性格付けが容易になる。

 

著者はこのようなテスト(上記ブログでご紹介した「ストループ効果」などが利用されている)を日本人学生(自分には共感覚がないと言う学生も含め)に対して繰り返すうちに、こういう色聴が一定のパターンを示すことを発見する。それは次のようなものである。

<ド=赤、レ=黄、ミ=緑、ファ=くすんだ黄緑、ソ=青、ラ=紫、シ=薄い赤紫>

これを見てすぐわかる通り、この系列は「虹の七色」と密接な関連性を感じさせるものである。ここで著者は「虹はなぜ七色なのか?」という疑問を提示する。

 

本来音も光のスペクトルも、物理的には連続的な量である。しかし音の方は「階名」や「音名」という離散的な体系として把握されている。こういう離散的な体系が成立した経緯について以前ブログに私のアイデアを記載したが、この著者も(若干ピタゴラス寄りながら)ほぼ同様の考え方によって平均律の円環とでもいうべき構造を示している。これは円を十二等分し、半音を30度、全音を60度として一周するとオクターブ上の同じ音名に至るという構造である。

 

ここで物理学者ニュートンが登場する(このあたりが個人的には一番興味を惹かれる点である)。ニュートンはこのような円環を考えたのだが、周知のとおりニュートンは光の研究者でもあり、このような「音名の円環」と「色相環」とが対応する、という考え方に惹かれることになった。そうなると、連続的な体系である「色相」も音と同様に離散的に把握できるのではないかと考えてしまうのが人間の弱いところであって、ニュートンのような天才であっても(この人は神秘思想家でもあるのだが)それに嵌るのは無理からぬところかもしれない。ここでニュートンは忠実な弟子を被験者にして、ややご都合主義的に音と色の対応表を作り上げる。当然ドレミの七音に対して色の方も七種類に分類され、ここにめでたく「虹の七色」が誕生したというわけである。

 

著者はこのような虹とドレミの対応が本質的に無意味であることを示している。まず音名の円環の方は音が上昇していって一周してオクターブ上の音名になることに何の問題もない。しかし「色相環」のほうは、波長の最も長い可視光である「赤」から最も短い「紫」までが連続しているものの、「赤」と「紫」の間に設定されている「赤紫(マゼンタ)」は単に「赤」と「紫」を同時に認識した色であって、それに対応する波長は存在しない。すなわち「色相環」は物理的に円環を形成していないのである。また、音名の円環を音の高い方に一周すると周波数が倍になる一方、色相環の方は1.6倍にしかならないという問題もある。

 

しかしながらニュートンの権威もあって、何となく「虹は七色」ということになってしまったのだが、では著者の実験において、音と色の対応が虹の七色に近い形態になるのはどういう理由によるのだろうかというのが本書の主眼である。ここで著者は、実験により成立した音と色の対応表が虹のスペクトル順に反している部分に着目する。それは「ファ」が明確に緑や青系の色でなく黄や茶のまじったあいまいな色であること、「ラ」は個人差が大きく、「シ」が彩度の低い薄赤紫であることである。

 

私などはここですぐ「いろおんぷ」というモノを思い出すのだが、これは日本で広く流通している音楽教材で、ピアノ、木琴、鉄琴などに音ごとに異なる着色をしたものである。この配列は次のようなものである。

 <ド=赤、レ=黄、ミ=緑、ファ=橙、ソ=青、ラ=紫、シ=白>

これを先のテストの結果と比べてみると、同一の配色が多いほか、ファがくすんだオリーブ色であり、シが白っぽい色であることなど、傾向に共通点が多い。私的にはここからすぐ結論に飛びつきそうになるのだが、著者はこのテストが「いろおんぷ」の普及とは別物であるという理論を展開する。その理由は、被験者の多くが「いろおんぷ」の存在を知らずもちろんそれで学んだこともない、という事実である。実は私も「いろおんぷ」的なものを何度も見た記憶はあるが、それに強い影響を受けた覚えはない。さらに著者は、万一上記テスト結果が「いろおんぷ」の影響であるとしても、ではなぜ「いろおんぷ」の配列がそのようになっているのかを解明する必要がある、と主張する。

 

ここで出てくるのが有名な「バーリンとケイの法則」である。文明の高度化に従って「色の名前」は増加するが、それには下記のような一定の順番がある、というのがこの法則の趣旨である。

 <「明・暗=白・黒」→「赤」→「緑または黄」→「青」→その他の色>

すなわち、色の名が二つの言語には白と黒が、三つなら白と黒と赤が、五つなら白・黒・赤・緑・黄が存在する。日本の場合は形容詞になる色名が「白い」「黒い」「赤い」「青い」であって、「緑」より「青」が先行しているが、日本の場合青と緑を厳密に区別しないところから考えてこれは法則の例外とは言えないとも考えられる。

 

そこから、著者は人間の色と音の認知において「順番」を設定する意識が、上記のようなテスト結果に反映したと考える。まず「白」と「黒」は音の絶対的な高さ(ピッチハイト)を意味し、それ以外で第一の位置を占めるのは「赤」であって、これは階名における主音である「ド」以外ではありえない(テレビの戦隊シリーズにおけるリーダーが「赤」であることなどがその例証とされる)。その次の位置である「青」には属音である「ソ」が対応する。その先はやや異論も出ようが、色でその次に指定される「黄」と「緑」は旋律音として重要な「レ」と「ミ」に配され、その次のややあいまいな「黄緑」は下属音の「ファ」となるというのが、著者の考えるプロセスである。

 

著者はこれら全体を説明する重要な着眼点として、ジョージ・ミラーの<マジカルナンバー「七」>を取り上げる。「世界の七不思議」など、ともすれば要素を数え上げるのに「7個」というのが一つの単位になりがちである。それを説明する方法として、人間が容易に記憶できる要素の数は5ないし6であって、8以上になると記憶することに困難が生じる。7という要素の数はまさに「容易には覚えられないが、不可能ではない」ぎりぎりの線であって、そのために人間は7つのものを、興味を維持するための数え上げの要素数として利用する、という理論である。階名の数がドレミファソラシの七音になったのもこれと密接な関連性があり、それがニュートンを経由して虹の七色という考え方を定着させた、というのが著者の主張である。

 

どうも、本の梗概をおおかた紹介してしまったようで、著者にはまことに申し訳ないが、私の紹介文などは本書の内容の一端に過ぎないので、ご関心のある方は是非本書をご購読いただければと思う。(本ブログは自分の記憶のために書いている側面もあるので、著作権侵害の意図は毛頭ないことをご了承いただきたい。)しかし本書の内容は、手軽な一般向けの新書の内容にしては非常に充実していて、興味深く読了することができた。しかしながら、蛇足になるとは思うが私の独自の考え方も示したいので、次回ブログではそのあたりについてお話させていただきたい。