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絶対音感(4)

「絶対音感」の話題もついに(4)まで来てしまった。回りくどい文章の連続で、読んでいただいている方には申し訳ないが、今回で最終回にする予定なのでご容赦願いたい。ついでながら、今回は音楽の技術的な話が中心で、音楽用語を一々解説するような余裕はないので、万一音楽にあまり興味のない方がおられれば(そういう人はこんなブログに付き合ったりはしないと思うが)、説明不足であることをお許しいただきたい。

 

さて、話は振り出しに戻って私の「絶対音感まがい」の問題である。その(1)に記したように、私には若いころから絶対音感を持つことは音楽的聴取には関係ないという信念があり、自分が絶対音感を持たないことを残念に思ったことは一度もなかった。しかし10年ほど前に自分があらゆる音を全音高く認識していることが分かって以来、私にも「絶対音感まがい」が存在することに気が付いた次第である。それは世間の音感教育の音名当てクイズには対応していないようだが、音楽を聴いているうちに頭の中で「固定ド」が走り始めるという受動的な絶対音感である。いままで私は絶対音感は無益であると考えてきたが、「絶対音感神話」に記されたように「本質的に有害」とまで思ったことはなかった。しかし絶対音感が相対音感を阻害するのであれば、あらゆる音楽を「固定ド」で歌うことには問題がある、という結論になりはしないか。

 

私は以前申し上げた通り「楽譜中毒症」であり、あらゆる音楽を、楽譜を見ながら聴くことに音楽の楽しみを見出してきた人間である。だから楽譜を見ているうちに、特に教育されたわけでもなく自然と「固定ド」で楽譜を読むようになった。曲の途中で転調しても必ずしも調号が変わるとは限らず、「固定ド」のままで読む方が転調の多い楽譜を読むのに便利だし、楽器を演奏するのにも「固定ド」のほうが「どこに調号が付いているか」を意識しやすいというイメージがあったためである。私の「絶対音感まがい」はどうも「固定ド」で楽譜を読む習慣から身に付いたものらしい。それは「音感教育」のような、幼稚園児あるいは小学校低学年時代に写譜ソフトの音声認識のような人間マシン化的訓練によって身に付いたものではないために、実際に音楽を聴くという場面でないと発現しないものであるようだ。

 

で、絶対音感が相対音感を阻害するとすれば、それを避けるためには「固定ド」をやめて東川清一氏流の「移動ド」に代えればいいのだろうか。その類の書籍やネットを見ると、「音名唱」と「階名唱」を明確に区別することが必要であり、本質的に「音名唱」である「固定ド」をやめて「階名唱」である「移動ド」を主体としなければ、西洋音楽の基礎である「調性感覚」が身に付かない、ということのようだ。こういう神学論争に付き合うのは勘弁願いたいのだが、私の感覚から言うと「ドレミ」は英米や日本では「階名唱」だがイタリアやフランスでは「音名唱」でもあるので、実質的な違いはないように思ってしまう。そこをあえて区別して「階名唱たるドレミ」による調感覚を強調するのが移動ドの主張だろうが、転調することが常識であるクラシックの曲を移動ドで歌うこと自体に無理があるような気がする。(ちなみに音名唱は「ハニホ」なんだそうだが、こういう歌い方を別に覚えること自体が非常な負荷になり、音楽が嫌になる危険性があるのではないか。)

 

私に特別な才能があるわけではないこと前提で考えると、楽譜を読んだり様々な調で楽器を演奏したりする人間は、自然に楽譜を固定ドで読む癖が付くのではないかという気がする。かつそれを長年続けていると、音感教育のような特殊な訓練をしなくても、いかなる音楽家にもある程度固定ドによる絶対音感が形成されるのではないかというのが私の仮説である。だからと言って自分を振り返って考えても、固定ドによって調性感覚が希薄になったり、音階の把握が白鍵に固定されるというような現象は感じられない。「レ-ミ-ファ♯-ソ-ラ-シ-ド♯-レ」という音階がニ長調の「ド-レ-ミ-ファ-ソ-ラ-シ-ド」であることは、私の中では音程の関係を確認するまでもない明々白々な事実である。これは少し楽器を練習したり楽譜を読むことを習った人なら、だれにでも共通なのではないだろうか。

 

先に「絶対音感神話」で、絶対音感が相対音感(音程)の認識を妨げるという事例が記載されていた。例えば「ファ♯-シ♭」という減四度音程が実は長三度(「ファ♯-ラ♯」ないし「ソ♭-シ♭」)と同じ音程であるという事実は、私にとって若干頭の切り替えを要する作業である。これだけを取りあげれば、ある音程を聴かされてその音程を答えるのに両端の絶対音高をまず認識し、その関係を計算して答えを出す音楽学生と同じ穴のムジナのように思われるかもしれない。しかしそれはこの音程がメロディの中に置かれた状況、すなわち「シ♭がラに解決する」のか、「ファ♯がソに解決する」のかというあいまいさによって、「長三度」の感覚を妨げられているということに他ならず、背景となる状況なしに単独である音程を聴かされて、その広さが認識できないというのとは根本的に異なる。

 

すなわち、西洋近代音楽の音階の認識は、同じ音であってもそれがどのような文脈で用いられているかによって、音自体の性格を変化させる可能性を持っている。だからこそ、この音程は四度でもあり三度でもあるのだ。このような両義的な音程に「裏切られる」あるいは「宙に浮く」感覚を身に付けなければ、エンハルモニック転調や半音階主義和声などを正当に評価することはできないだろうと思う。

 

こういう考え方からは、単純にあらゆる「絶対音感」が音程の把握を妨げると単純に結論付けてはならないように思われる。私の考え方は次のようなものである。音楽を少々練習すれば「固定ド」は自然と身に付くものであり、場合によっては私のようにそれをベースとした絶対音感(まがい)が形成されることもある。これは「音名当てクイズ」には対応できないが「音楽を聴く」際に受動的に自然と発現する、絶対音高感が若干洗練されたものと考えることができる。「固定ド」は「階名唱」かつ「音名唱」であってディアトニックの認識が基盤にあるのだが、それでいろいろな調の音楽に馴染んでいけば読譜のためには力となりこそすれ、決して調性の理解を妨げるものとはならない。ある音を「ド」と呼んだら即その音が主音だというのは最初歩のレベルであって、しばらく音楽に親しんでいけばそういう感覚は薄れていくものである。これに対して「音名当てクイズ」によって形成された絶対音感は、相対音感の形成を阻害し、かつ調性の把握にも多分プラスに働かない、と考える。

 

ついでながら、無調の曲を歌うのに「固定ド」が便利だという発想も奇妙な論理だ。もちろん調性のないものを移動ドで歌えないのは当たり前だが、階名はディアトニックな音階という西洋音楽の旋法的基礎に基づくものであるので、固定ドで歌うことによって多少とも無調の曲に調性的な気配を加えてしまう危険性があることは否定できない。当然無調の曲はその構造に合致した方法で歌うべきであると思うのだが、残念ながらそういう階名はまだ発明されていないので、固定ドで歌うしかないというのが現実だ。しかし上述のように固定ドは少し慣れれば実質的な音名唱に近いものになるので、その不便は受忍限度の範囲内なのではないだろうか。(頭の中で歌わないという訓練をした方がいいのかもしれないが。)

 

私には先ほどの「音名当てクイズ」で身に付いた絶対音感が、例えばトータル・セリエルのような創作様式に対応するのかもしれないという仮説がある。私の考えでは、音列技法で作られた作品が「分からない」すなわち聴いて認識することが難しいのは、音の構築がゲシュタルトを構成することを拒絶するからである。伝統的な音楽の形式は音同志の関係の評価によって構築されている。しかし音列技法においては音の属性の「順番」以外の関係は評価対象ではない。このように音の関係(音程とかリズムとか)の認知を捨象した構築(?)を認識するためには「音感教育」で行われるような絶対音高の単独認識が決め手になるのかもしれない。もっとも、そのような認識が「クイズに正解する」という以上の喜びを聴き手に与えるかどうかは何とも言えない気がする。

 

「絶対音感」について長々と考察してきたが、いずれにせよ私の場合この歳になって「固定ドで歌うこと」「それにあいまいな絶対音高感が付きまとうこと」は今更変えることもできず、音楽を職業や趣味にしたりする人はそうなる可能性が強いと思われる。私の場合、それに「耳の老化」という現象が加わって(リヒテルにあやかるつもりはないが)「全音高く聞こえる」という困難な事態になっているといいうのが現状の結論だ。しかしそれで音楽が楽しめなくなっているわけではないので、最終的には「まあいいや」という心境なのだが、もしこのブログをご覧になった耳や脳の専門家の方がおられれば、何とか解決法をお教えいただければ幸甚である。

 

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コメント: 2
  • #1

    森 貴和 (火曜日, 02 3月 2021 13:31)

    絶対音感をもっていても、移動ドは楽しめます。移動ドの方が音楽的だとも考えています。勿論、小さな転調は無視しますが。
    僕自身が最初バルトーク絶対音感を持っていなくて、後で中途半端に獲得したものですから、こんなこと言っていいのかどうか、よく分かりませんが…

  • #2

    有山 晃一 (火曜日, 02 3月 2021 15:48)

    バルトークは絶対音感を持っていたらしいですが、コダーイ・システムの方は「移動ド」中心の教育方針で、絶対音程を重視しないということらしいですね。この「固定か移動か」は本当に問題が複雑で、そもそも小中学校の音楽教育しか受けていない私にはその是非を判断する資格はないと思いますが、ソルフェージュの教科書のような短い旋律が書かれた楽譜は私も確実に移動ドで読んでいます(それに抵抗があるほど強烈な絶対音感教育は受けていない、ということだと思います)。しかし少し長い曲になると、途中で調号の変更なくどんどん転調していくことも多々あり、そういう場合調が曖昧であること自体が魅力、というようなケースももちろんありますので、初めにスタートした調で最後まで読むことも、初めから固定ドで読むことも、実質的にあまり変わりはないような気がします。(「最後に原調に戻った」感覚はあるのかもしれませんが。)

    私の感覚としては「西洋音楽の基礎をきっちり身に付ける」ためには当初(コダーイ・システムの対象者など)は移動ドが必要なのでしょうけど、いろいろな楽譜に接した後では固定ドで歌うことによって調感覚が失われることは少ない、と思うのです。移動ドで歌われる場合、例えば(教会)ドリア旋法は「ド-レ-ミ♭-ファ-ソ-ラ-シ♭-ド」でしょうか、「ラ-シ-ド-レ-ミ-ファ♯-ソ-ラ」でしょうか。移動ドで歌う必然性のあるのは、古典的長音階と短音階のものに限られると思いますので、いろいろな曲を階名で歌う上ではフレキシビリティのある固定ドを使用することが増えることは仕方がないと思っています。ですから、私としては固定ドを擁護する気は毛頭ありませんが、仕方なく使っている、ということは言えるでしょう。