<著書のご紹介> 

 

「音楽史のパースペクティブ」

     -音楽学統合の試み

            Kindle (AMAZON)

 

 この本は私が日々の通勤の途上、電車の中で音楽について疑問に思ったこと、それについて自分の頭で考えてみた結果をメモに書き留めてきたものを、まとめて電子書籍にしたものです。

 

 個別作品の話題ではなく、音楽史の流れを全体としてどのようにとらえるかについて記述しています。その中では、あまり取り上げられないような問題意識を提示したり、また一般的な解説に対して異説を唱えているものもあります。

 

 下記に主要な論点を記載したものがありますので、もしこの中の一つでもご興味を惹くものがありましたらご一読いただければ幸いです。

 

 お求め頂くには、AMAZONかKindleのサイトで書名で検索していただくか、あるいは左下のQRコードで検索してください。なお、ダウンロードいただくのに約300円かかりますので、ご了承ください。

(上記赤字部分のリンクからも入れます。)

 

 

 

 

 

 

 

 

「音楽史のパースペクティブ」 主要論点

  ここに記載したものは本書の論点のごく一部ですが、比較的特徴ある主張と考えるものを記載しております。

  詳しくは、本書をご覧ください。

 

[基本的な論点] 音楽の形式は十分に認識されなければならない。

 

音楽を創作するとか聴くとかいうことは、その形式(の差異)が意識されることである。そのためには音楽の形式は認識が容易なように明確であり、かついろいろな形での認識の支援がなされなければならない。これがすべての音楽に関する議論の基盤である。

 

 

・音楽する(作る、演奏する、聴く)ことに理由はない。

 

音楽その他の文化行動に理由はない。文化行動の本来の意義は、意識において「生存のための必須の活動と区別されること」それ自体である。すなわち、音楽の目的はその形式に注目しそれに集中すること、かつそれを反復利用することである。しかしそのことの重要さゆえに、例えば音楽には音楽美が存在するという観念が仮構されている。また、集中されるという特質はそれが各種の目的に利用されることに繋がっている。(Ⅰ-2)

 

 

・音楽は「言語ではない」

 

音楽と言語は元来同根であるという議論がある。たとえそうであるとしても、音楽は文化活動として明確に認識され対象として即時に利用できることがポイントであって、もし同根であるとすれば音楽は言語と分離した時点で音楽となった、と考えることができる。それが音楽と言語がその要素において相補的である理由である。(Ⅰ-4)

 

 

・音楽と感情は一体ではない。

 

音楽と感情に緊密な並行性があることがしばしば指摘される。それは音楽の形式を感情と関連付けることによってより容易に形式を認識させられることからくる、かなり本源的なものである。しかし二者が別物であることは自明であり、そのため音楽の種類によって形式と感情との関係はさまざまである。また一般的な感情と対応できない形式も当然存在する。それは人間が日常生活において持つような情動(感情)ではなく、特定の音楽によってしか引き起こされない情動であることを意味する。(Ⅱ-5)

 

 

・音楽は「個物の構造体」であるような対象物である。

 

音楽の形式は音の集合体が「個物(ゲシュタルト)」として認識されることがポイントである。そのような個物が構築されることにより音楽は形成される。個物を形成しないような形式は、そのことにより注目されるために存在するが、そのようなものが明確に認識されるためには各種の支援(「ラベル貼り」など)が必要である。(Ⅱ-1~4)

 

 

・音楽の要素を作るのは「継起」と「同時」の相互作用である

 

音高の組織が確定するのは同時的把握によって「和音」がモノとなることによる。またそのような和音を継起的に運用することで「和声」や「調性」が発生する。このように相対的な音の関係は同時的把握が継起的に運用されることによる。リズムも同様であって、リズム・パターンは周期的な時間との同時的把握によって認識される。これらの関係は音強、音色その他の要素には現状適用されていない。これが音楽の三要素が「メロディ・リズム・ハーモニー」となる理由である。(Ⅲ-2~6)

 

 

・「旋法」「音階」「和声」「調性」等の用語は明確に定義付けなければならない。

 

これらの用語は今日極めてあいまいに使用されている。例えば19世紀末に復活した「教会旋法」は実質的に「音階」であり、その運用は「調性」に基づくものだった。「旋法」は「旋律を作るパターン」であり使用される音のリストとしての音階ではない。「和声」は音の同時的構成(和音)を類型化して整理するために抽象化したものであり、「調性」は和声の継起的構成の定型である。これらの用語を明確に定義し運用することにより、音楽の様式について正確な議論をすることができる。(Ⅲ-2~4)

 

 

・音組織は「ピタゴラス」ではない。

 

オクターブ十二音からなる音組織が五度の累積(ピタゴラス音階や三分損益)によって成立するというのは高度な思弁的発想によるものであり、本来の音組織の成立とは無縁である。音組織はオクターブ、五度、四度等の明確に認識できる音程が確立したのちに、それをオクターブの中に位置づけようとする試みから成立した。すべての全音や半音が同一であるという平均律的思考が可能であるのは「奇跡のような偶然」であるが、それを可能にしているのは「鈍感力」の賜物である。(Ⅲ-2)

 

 

・三和音は「倍音列」ではない

 

長三和音を説明する際に「倍音列」にその根拠を求めることが一般的であるが、それは必須の要素ではない。三和音は単に三つの音が互いに協和することが認められているのみであって、短三和音であってもその事情は同一である。短三和音を説明するために「下方倍音列」を採用するリーマン主義には根拠がなく、同時的構築と継起的構築の何らかの混同があるように思われる。ピタゴラス音階にせよ下方倍音列にせよ、思弁的発想の暴走には常に警戒すべきである。(Ⅲ-4)

 

 

・古典派は究極の「単純さ」と「階層性のある構築」である。

 

音楽上の「古典派」はマスとしての聴衆の成立によって発生した「究極的な音楽要素の単純化」の結果である。単純化され個物化された「部分」は大規模に構築することが可能であり、かつそのような構築が階層化されていることが、明確な全体性の認識を確保することになる。このようにして古典派の傑作群は人類の永遠の宝となっている。また、このような作り方はまさに「究極のポップスの作り方」であり、今日大衆音楽のほとんどすべてを支配している。(Ⅳ-1)

 

 

・現代音楽の問題点は「個物」となることを拒絶することである。

 

「音列技法」(「総音列技法」を含む)は20世紀を席巻した後ほぼ消滅したが、その問題点は個物としての「部分」の認識を求めず、そのための支援も拒絶するところである。その他さまざまな技法が今日行われているが、全体の構築方針が認識できないような音楽はだれもが理解できる音楽となることは難しい。(Ⅴ-1~2)

 

 

AIに真の創造はできない。

 

AIはルールに従って大量の処理を行うものである。したがって、音楽の作り方に明確なルールが設定されれば、それに従ってAIは音楽を大量生産することができる。しかしそれはAIが何か「新しいもの」を創造することを意味しない。人間の創造は環境との相互作用において常に新奇なシステムを構築(あるいは評価)することであり、そのような「進化」をAIに求めることは間違っている。(Ⅴ-3)