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「定型」の効用(続)ー「調性」という定型

前回のブログで「定型」についての考えを述べたが、これについて若干書き漏れたことを追加する。(音楽史の技術的事項に関する話題なので、ご興味のない向きもあるかと思われるが、ご容赦いただきたい。)

 

「定型」はあらゆるモノを個物として対象化することにより明確な認識を与える基本的な戦略である。また、「定型」を扱うことは、さまざまな情報をタイプ別に分けたときに、それが特定のパターンであるかどうかを認識する(いわゆる「パターン認識」)だけでなく、典型的・標準的な「定型」とみなす特定の情報を中心に、その他の情報パターンを規則に従って配置するということでもある。前回述べたように「完全終止」に対して「半終止」や「偽終止」、さらにその他の和声連結がどのような印象の違いをもたらすかを認識することが、「定型」を体系の中に持ち込むことの意義であるということができる。

 

これはすなわち「調性」というものを、「定型」との関係、あるいは距離としてとらえることができることを意味する。そもそも、この曲はハ長調だとかイ短調だとか言う場合の「調性」という概念について、それをどのようにとらえるかは明確に定義されているとは言い難い。例えば、以前にご紹介した「西洋音楽の正体」(伊藤友計著)に引用されているブライアン・ハイアーの論文には8種類の定義が挙げられており、「音高現象のシステマティックな組織化」といった極端に幅の広い概念や「参照先となる主音との関係で調整され、想定される音楽現象」といったややあいまいさの残る表現から、「長音階と短音階を前提とする参照先となる主音を巡る音楽現象の配置」というようなかなり限定的な表現までさまざまなものが列挙されている。

 

私のような日常的に契約書と格闘している人間に言わせれば、こういう適用範囲が明確でない定義をしておくと、後で紛争になった時に碌なことにならないというのが通り相場である。「…についてはその都度当事者間で別途誠実に協議し決定する」などという文句は仕方なしに認めるものの、その場に及んで相手方が良識をもって協議に応じてくれる保証はない。上記のような「調性」の定義を基にすると、いかにも「無調」というような作品(例えば十二音技法による作品)であっても「調性的に聞くことができる」などと言われると、それを認めるしかなくなる。

 

私の「調性」についての考え方はより限定的な、かつ単純なものである。私は「調性」という言葉を「和声」の存在を前提として考えている。ここで言う「和声」は音高の同時的配置における類型化された音響パターンであり、「調性」とは「和声」の継起的な配置において設定された「定型」に対する関係の認識を言う。もちろん、音高の同時的構成であって「定型」の存在を前提としないものもありうることは否定しない。しかしそういうものが明確に認識できるかは極めて疑問である。一般的に「調性的な音楽」という場合、我々はそういう規範の存在を前提として、規範に合致していることをその基準とみなしている。

 

「調性」に対して、ほとんどの伝統的な音楽は「旋法」を持っており、これは音高の継起的構成を支配するものであって、これも一つの典型的な「定型」の活用であると言うことができる(もちろん調性的な音楽も通常は旋法を持っている)。例えば中世教会の単旋聖歌には終止音(finalis)と支配音(dominant)があり、それらの音を常に「参照」しながら音楽が進むのだが、これを調性というのであればごく一部の現代音楽を除く世界中の大半の音楽が調性音楽であるという結論になり、この用語自体にあまり意味がないことになるだろう(そういうイメージでこの語を使用する向きもあるようだが)。

 

しかしながら、オルガヌムの発生において、和音の協和度による構築が行われるようになると、時代の様式は「前調性」とでも言うべきものとなる。和音間の関係が「段落における不協和から協和」というような定型によって支配されるようになるからである。音の同時的構成すなわち「和音」にはまだ抽象性がなく「和声」という段階には達していないが、そのような「和音」の組み合わせはやがて和声進行として規範化される萌芽と言うべきものだ。しかし本格的な調性音楽を形作る「和声」の存在のためには、これらの和音を構成する音が個別に意識されていてはならない。この段階ではまだ対位法は「旋律と対旋律の音同士の関係」であって、抽象的な和声の意識には至っていないからだ。

 

転換はルネサンス期に入り、「三和音」が音楽の世界に市民権を確立する時代に起こる。音の数が増えるに従い個々の音に対する意識が低下し、ここに「協和した響き」である音響類型としての「和声(=三和音)」という意識が成立する(これも典型的な「定型化」である)。しかしまだ「和声の組み合わせで音楽を構築する」という意識は低く、旋律に対する配慮(旋律間の音の協和度への配慮)が優先しているので、この段階は私に言わせれば「原始調性」といったところである。

 

前掲書にも記述のある通り、1600年前後にこのような「和声」が完全に抽象性を獲得し、音楽は「和声の組み合わせ」で作られるようになる。上述した通り、このような和声による構築が明確に認識されるかどうかは、組み合わされる和声の種類による。したがって、必然的に「明確に認識できる組み合わせ」が「定型」となることには必然性があり、あらゆる和声進行は「定型」としてのカデンツのパターンを参照することになる。すなわち結論的には、調性は特定の音を参照するのではなく、特定の和声の組み合わせを参照するものである、ということになる。

 

問題は「無調」である。バロックから古典期にかけて、西洋近代音楽はこの「調性」すなわち三和音の定型的な組み合わせを参照することで大繁栄を遂げたので、今日クラシックポピュラーを問わず大半の音楽が「コード進行」で作られている。もちろん伝統的な民族音楽を聴く場合にはそういうものが存在しないことを認識しているので、迷いは生じないのだが、クラシックな「無調」の音楽を聞かせられる人間は、必ずその「コード進行」を無意識のうちに探すだろう。すなわち、構造が認識できない場合、人間は過去の経験に基づいて既知の構造を対象に投射するので、通常は何らかの「コード進行」があるのではないかという意識が頭の中にこびりついているのだ。かのシェーンベルクが「無調などという音楽はない」と言ったということだが、それはもちろんドイツ音楽の伝統を徹底的に研究した本人であれば、当然と言うべきである。

 

だから、今日伝統的な調性概念に立脚しない音楽を聴くとき、そこに調性を見出さないことは大変難しいのだ。そういう音楽は旋法的に聞けることもあり、音色の差異で構築されていることもあり、その他数学的な手法で構築されていたりもするのだが、必ずしもそういう聞き方ができるとは限らない。「定型」は便利なのだが、何でもかんでも「定型」を使用したり参照したりするようになると、政府のお偉方のように定型であらゆることを済ませられるように錯覚することになる。難しいことではあるのだが「聴き方の白紙化」を通じて聴く必要のある音楽もあることを、我々は考える必要があるのではないか。

 

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