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Ethnic Music Matters(1)

 

いろいろ書きたいことはあるのだが、昨日こういう記事がネットに出ていたので、覚えているうちにブログにしておく。

 

「モーツァルト」も「五線譜」も差別的? オックスフォードが音楽の授業の変更を検討中

 

リンクがそのうち切れると思うので内容を書いておくと、英オックスフォード大学の音楽カリキュラムが「白人主義」に偏向しているとの抗議が一部教員からあり、「モーツァルト」「五線譜」「ピアノ」「指揮」などというような西欧起源のものを「必修」から除外しようという動きがあるとのことである。併せて、ヒップホップとかジャズなどアフリカ起源のものを白人教師が教えていることにも抗議の動きがあるらしい。(これらがどの程度「アフリカ起源」なのかという問題は後で検討したい。)

 

もちろんこれは例の「BLM」(Black Lives Matter)の流れによって、人種的な多様性を前提とした教育を行うべきであるという発想の現れであることは言うまでもない。私は何度も言っているように政治的な立ち位置はブログでは表明しないことにしているので、BLMの思潮自体に意見表明はしたくないのだが、この件に関しては非常に違和感を覚えるところが大きく、政治的云々の視点と全く異なるところからこれについて考えることにする。

 

私は今日一般的に世間に流れている(聴かれている)音楽の99%が「西洋近代音楽」の基本的枠組みを踏まえていると考えているのだが、それはいわゆる「音楽の三要素」が出揃ったのが、先のブログでも指摘したように西欧における「バロック」時代の開始期であると見ているためである(もちろんそれに至る中世以降の西洋音楽の流れをその前提として考えている)。

具体的に言うと、

①「メロディ」 音律に関する理論の整備。ディアトニック(七音音階)とそれを定型化した長短の音階が音楽の基礎となる。

②「リズム」 規則的な拍節、偶数構成の楽節などの重視。

③「ハーモニー」 和音を抽象化した和声の成立と和声の組み合わせによる定型(「調性」)に基づいた構築。

というような、古代音楽や(西欧以外の)各地の民族音楽に元来ない、あるいは薄い要素が、現在聴かれている大多数の音楽の構築を支えている、という事実である。

 

これらはれっきとした「西洋近代音楽」の要素であり、西欧において発達したものであることは疑うことができない。すなわち、西洋発の体系が世界標準となっているものである。これに対して、冒頭に記載した「多様性」を主張する論者たちは「西洋的、白人的」な音楽に対してどのような代替物を考えているのだろうか? 私に関して言えば、ここに例として挙げられているジャズについては好きだが詳しくはないし、ヒップホップに至ってはその本質が分かっているとは言い難い。しかしながらいずれも上記の①②③を満たしていることは間違いないと思っている。ジャズは一種のバロック変奏曲であり、ドラムスによるリズムの明確化が図られていること、即興が必須の要素とされること、旋律や和声に特有の定型あるいは「癖」(ブルーノートとかテンションとか)があることなどを除けば、アフリカ文化あるいは西欧におけるアフリカ系民族の文化から強い影響を受けているとは言っても、その形態の大部分は西洋近代音楽そのものであると言って差し支えない。ヒップホップの方は正直ロック(これも上記の①②③をそのまま満たしている)との違いがよくわからず、多分音そのものの周囲にある「認識の支援」(もちろんこれも大事な「音楽の要素」である)にポイントがあるのだろうと思っている(一種の「総合芸術」ジャンル?)。

 

これらの音楽は私に言わせれば、すべて「西洋近代音楽」の基盤の上に成り立っている。したがって、これらの音楽に「五線譜」や「ピアノ」が使用されてもなんら不思議ではない。「五線譜」は音楽を正確に記録したいというごく普通の欲求から発明されたものであり、ポイントはそれが「ディアトニック」に基盤を置いているということである。したがって離散的な音律やディアトニック音階を使用しない音楽(十二音技法とか電子音楽とか)には不適当であるが、ジャズやヒップホップがそのようなものであるとは考えられない。「ピアノ」もほぼ同様で、「平均律」かつ「ディアトニック(すなわち白鍵)」をベースとしてはいるが、要は「いろいろな音をできるだけ簡単に出したい」というその一点を目指した機械である。「指揮者」は、燕尾服に蝶ネクタイのスタイルを別とすれば西洋近代音楽の専売特許ではなく、数人の楽隊なら「息を合わせる」ことで可能になる合奏も、演奏者が増えると確実に必要となる装置(いわゆる「音頭取り」)である。

 

最後に「モーツァルト」だが、これこそ「西洋近代音楽」の象徴としてやり玉にあがる気持ちは分からないではない。それがなぜかというのが最大の問題であり本論の本題でもあるのだが、かなり長くなるのでこの先は次回のブログに続けることにする。