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「社会思想としてのクラシック音楽」

<最近読んだ本>

「社会思想としてのクラシック音楽」 猪木武徳著 新潮選書

 

本ブログでは主として音楽の技術的側面を考えることをテーマにしているのだが、本書の著者は経済学者で、本書は音楽の社会学的側面における意義を検討するというものである。といっても著者の音楽に対する造詣は並々ならぬものであって、そこらの音楽好きのディレッタントとはもちろん明確に一線を画している。

 

本書は社会と音楽の関係について論じているのだが、本書に出てくるのは主として著者の専門分野と思われるアダム・スミスやトクヴィルのような古典的な思想家であって、それらの思想の背景となる社会体制の変化、すなわちアンシャンレジームからデモクラシーへの動きが底流となっている。すなわち、本書の理論的ベースになっているのは「経済基盤の変化に伴う音楽の受け手層とその享受のあり方の変化」という、ある意味おなじみのテーマである。内容としては、バロックから古典派にかけての作曲家とパトロンの関係とか、ロマン派における個人的様式の追求、さらに近代における国家と個人の関係(スターリニズムとショスタコーヴィチ)など、これまたおなじみの話題が幅広く網羅されている。

 

そう思うと改めて気付くのだが、本書のタイトルは「社会思想としてのクラシック音楽」であって「社会思想とクラシック音楽」ではない。すなわち「クラシック音楽」が一つの社会思想となる、というのが筆者の考え方である。本書に書かれた内容は決して目新しいものではなく、その分析も極めてオーソドックスなのだが、ポイントはおそらく音楽が社会によって規定されるというより、音楽は社会と表裏一体であって、音楽自体が社会を表現する一つの「思想」であり、場合により音楽という思想が社会・政治を動かすこともある(本書最終章)というのが筆者の主張であろうと思われる。

 

本書には「規模の問題(拡大・縮小)」「技術革新(複製技術など)」「ナショナリズム」など、切り口の異なるさまざまなテーマが取り上げられているが、それらは社会の変化でもあり多くの場合音楽上の変化でもある。そうして、これらすべての根底にあるものはトクヴィル的な市民社会を特徴づける「大衆化」という現象に要約されると筆者は見ているように思われる。本書の考え方を私なりに敷衍すると、この「大衆化」という現象は次のような過程を経て成立する(筆者の見解ではなく、私の勝手な意見です)。

 

そもそも、文化というものは「生存のための日常」に存在しない異質性を求めるものである。「実行するもの」であれば日常生活と区別される行動様式(スポーツとかゲームとか演奏とか)、「鑑賞するもの」であれば「完璧さ」「困難さ」「かっこよさ」など存在が稀なものが対象となる(いわゆる「崇高なものを求める精神」はこの方向性の極限を表す)。文化行動は本能に発しているが、本能のみで成立するものではなくなんらかの「修練」(「実行するもの」であれば練習、「鑑賞するもの」であれば理解力)を必要とする。このため生存ぎりぎりの状況では文化行動の形態は限定され、自らの属する集団によって与えられるものが即自らの「文化」となる。しかし社会の生産力が向上すると、自らの嗜好によって文化の対象を選択できるようになる。そうは言っても多数の人間が自ら選択するものには統計的な分布が存在し、作り手はそういう多数の受け手に対して平均的に受け入れられるものを制作することにより「ヒット作」を販売することができる。さらに生産力が向上していくと、作り手は「個性」を打ち出すことによっても十分な受け手を確保することができる。

 

このようにして、芸術のパトロンが「王侯貴族」から「大衆」に変化していく。王侯貴族のような権力者は自ら「規模」を追求することも可能ではあるが、そういうイベントはしょっちゅうあるわけではない。ホールに多数の大衆を集めることができるようになると、音楽はそれで十分「元を取る」ことができる。大衆化は「技術」特に複製の技術の開発普及に支えられまたその進展を促し、音楽を広い裾野に対して届けることができる。「ナショナリズム」については、「国民国家」というものの成立がポイントになる。政治や戦争が「王家の家事」から「民族の誇り」になることによって、「国家」という集団が固有の文化を持たなければいけないという発想が出現するが、ここに「国民」という大衆の区分と、それを反映した芸術(必ずしも当該国民のためのものというわけではない)が成立することになる。

 

「社会主義リアリズム」が成立する過程もこれに近いものである。全体主義国家においては大衆を統制することが一つの目標になるが、そのためには国民全員が一致した行動を行うように操作する(かつ、可能であれば「操作されている」という意識を持たせない)必要があり、文化もそのうちに含まれる。拙著にも記した通り、音楽の目的は「それに集中すること」であり、同じ音楽に集中する人々は「余計なことを考えない」集団である。軍楽隊とかロックコンサートとかはこのような集団を作ることを目指している。そのためにはできるだけ多くの大衆に対して集中が可能となるような芸術が必要だ。それはごく簡単に言えば「形式の認識が容易であり、かつ興味を維持できるような要素を持った対象」である。

 

前半の「形式の認識の容易さ」は、このブログでも再三指摘しているように西洋音楽を発展させてきた原動力であって、特に古典派の作曲家がそれを原動力にして大規模な大衆化を達成したことは注目すべきである。一方、後半の「興味を維持できるような要素」が何かというのが問題だが、それはいろいろな要素によって規定される。音楽であれば本来的な音の形式(メロディとかリズムとか)への興味のほかに、歌手が美女やイケメンであることとか、「現に巷で流行していること」などもれっきとした要素であるのだが、ここで非常に重要なのが「テキスト性」である。

 

本書でも最後に総括として「言語、音楽、デモクラシー」という章が置かれており、音楽が外部世界と触れ合う部分の問題が論じられている。また自己流の解釈になって恐縮だが、拙著でも詳説した通り、音の形式に対する言語による「ラベル貼り」は音楽にとってほとんど必須の作業であって、「音楽用語」に始まり「表題」「歌詞」「脚本」など、様々な形で言語は音楽とかかわっている。反対に言語によるテキストが音楽の支援を受けているケースももちろん一般的であって、これらの相互的支援関係は「歌」という総合的形態において、今日の大衆音楽の世界を事実上席巻していると言える。

 

この話は別の機会により深く掘り下げたいが、ここでの問題はこのような「テキストとの総合」が大衆化には必須のプロセスであり、これが音楽の社会的利用のキーポイントになっているということである。社会主義リアリズムを例にとれば、音楽という自律的な体系に「レニングラード交響曲」というようなラベルを貼って外部世界との対応付けを行ったり、党賛美の歌詞によって直接思想を表現したりというのは、目的達成のための当然の作業である。これは資本主義社会では「CMソング」という形で典型的なポップカルチャーの形態をとるのだが、それが「クラシック音楽」という分野で行われるのが全体主義体制の特異なところである。それはこの種の全体主義体制が「個々人の幸福」に直結しない「国家の繁栄」を目指しているため、「国家の目標」を何らかの「究極の高い価値」と結びつけなければいけないという観念に取りつかれるからだろうと考えられる。

 

全体主義体制下での文化がこのような画一化に向かう一方、著者はトクヴィルを引用しつつ、デモクラシーにおける音楽のあり方も必ずしも自由の名に相応しいものではないことを説く。大衆は大量生産される構築度の低い音楽を高度な集中することなしに受け取らされ、制作者もまたそれを前提として画一的な制作を行うようになる。著者のイメージするデモクラシーは個人が自由な意見を持ち、それらが社会の中で他者との触れ合いにおいて秩序を生み出していく過程であるようだが、そのようなダイナミックな過程は必ずしも実現されるわけではない。それを実現するためには「想像力」をもって「不一致」を恐れずに行動することが必要であるというのが著者の考え方である。

 

著者はこういう社会制度の調整過程を音楽形式にも適用し、音楽本来のありかたは多様性が何らかの秩序のもとに統合されることであると主張する(これに関連して著者は、多様性を秩序に統合しないか、あるいは天下り式の秩序に従わせる現代音楽に対する疑問を提起している)。そうして、音楽の享受においても想像力をもって「未来」「他者」に関心を持ち続けることが重要であるが、特に音楽という技術的な問題が重要である分野においては、そのような探求において専門家の補助が必須であるというのが著者の結論になっている。

 

以上、私の解釈と独自意見的な部分が多くて、あまり本書を読むご参考にはならないことをお断りしなくてはならないが、全体として本書は古典的な経済学・社会学と音楽史を重ねて、両者の間に見られる並行現象が指摘されている点に興味が惹かれる。もっとも、個々のテーマの記述に熱心な反面、全体としての著者の主張、処方箋がやや読みとりにくいのだが、そこは多分「デモクラシーの発展」という周知のプロセスを前提としていることで理解できると考えられているのだろう。それにしても、音楽の多様性に常にアンテナを張って、「音楽の衆愚政治」に陥らないようにすることは結構難しいことである。そのためには自分の視座をしっかり持ちながらも多様なものの見方を身につけなければならない。「認識の容易さ」だけに依存して細部を切って捨てるような分かりやすい政治傾向が危険であるように、音楽においてもどれだけ対象を集中してきめ細かく聴くことができるかが、自分の音楽の世界を豊かにする方法であるというのが、本書を自己流で読んだ私の結論である。