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君が代

オリンピックの運営も迷走続きで、あまり関心はないもののずっと心配していたのだが、開会式も概ね大過なく終わったようで、まずはめでたいことである。

 

一応開会式は日本国民らしく(?)テレビの前に陣取って一部始終を拝見したのだが、超一流の演者を揃え、そのパフォーマンスも実に素晴らしいものの、何となく全体の「ストーリー性」が分からずもやもやした気分が残った。テーマは「平和」なのか「復興」なのか「コロナ克服」なのか、あるいは「日本文化の紹介」や「国威発揚」なのか、そのあたりが明確でなく(あるいはそれらすべてなのかもしれない)、例えば「暫」の景政がジャズピアノと組み合わせられることでどういう新しいメッセージが生まれるのかと考えるのだが、単に二つのものが並行していて何かが誕生したというイメージがない。

 

いろいろな要素を組み合わせて新たなものを構成する「総合芸術」という考え方が存在するが、そのためには明確な構成原理を通じて構成されたものが一体として認識されることが必要である。今回の演出は個別のパフォーマンスの分かりやすさだけで、それらが構成されて何を目指しているのかが分からない。放送される世界の人々に対して、個別の芸が分かりやすいことを優先しているのかもしれないが、それは世界に広まっている既存の日本のイメージを喚起するだけにとどまっているように思われる(アニメやゲームなど大衆文化の強調も同様である)。

 

昔はオリンピックには「芸術競技」「芸術展示」というようなものがあって、三善晃のオケコンなどがそのために制作されたという歴史もあるのだが、総じて今回の開会式には「そのために新たなものを作る」ということが少ない。どうも全体の演出が「紅白歌合戦」的で、アーチストの発想でなくプロデューサーがすべてを仕切っている感じがある。「平和」のイメージが必要であれば「イマジン」、盛り上がる場面であれば「ボレロ」というのはあまりに安直なプロデューサー的発想ではないだろうか。開催が決まってから今日までの間に何年もの準備期間があったにもかかわらず、新規に創造を行うのでなくこういう差しさわりがなく評価の定まった既存の作品に頼るというのはどういう感覚かと思う。

 

「イマジン」の(曲自体の)メッセージ性には何ら非難すべき点はなく、またラヴェルは私の神であって、ボレロが「ラヴェルの創造力の減退を示す」と言われることがあっても、やはりこれは大傑作であることを否定はできない。しかしボレロの魅力は全体の長~いクレッシェンドにあり、こうしてクライマックスだけをつまみ食いするような曲ではないだろう。(むしろそのあとに演奏された吉松は、芸術価値を云々されることも多いものの、こういう場のための音楽としてはまことに相応しいものであると感じる。)その他のいろいろなアトラクション、パフォーマンスにも、「面白いものを並べよう」という以上の創造性を感じることはできなかった。

 

そういうわけで、個別に見れば興味深いパフォーマンスも多々あったものの、全体としては何となく「多様性」というよりは「まとまりのない」印象の方が強く、正直なところ私としては今回のオリンピック開催に関する混迷を反映したものと感じられた。しかしながら、当初から私の興味の中心は実は全く違うところにあって、それは「君が代」の演奏である。

 

私は「君が代」が国歌に相応しいかという類の議論には関与したくないが、この曲には非常に興味を持っており、以前Q&AサイトのQUORAに関連の質問が出たものに回答したことがあるので、ここでご参考までに転載させていただきたい。

 

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(質問)「君が代のコード進行やメロディは音楽理論を知っている人からすると美しいのでしょうか?」

 

(回答)「君が代のコード進行」というのは、他の回答者の方がお答えになっているように、エッケルトの編曲のことを言っておられるのだと思いますが、この編曲は美しいかどうかはさておき、実に興味深いものです。この編曲の和声付けは始めの2小節が単音で、そのあとハ長調が支配的ですが、最後の部分になってニ短調(ないしドリア)の気配が生じ、最後はまた単音で終わります。流石にこのメロディですからハ長調では終われず、悪く言えば誤魔化しているのですが、エンディングが単音というのは荘重さを醸し出すテクニックでもあり、ある意味では上手いものだと思います。

 

非常によく聴く機会があることから、格別違和感を持つこともなく聴いておりますが、いま「音楽」という言葉でイメージされる西洋近代音楽の作り方から見ますと非常に異様なものです。世界の国歌は(多分)全てが長調か短調、すなわち西洋近代音楽の枠組下にあり、これに反するのは君が代のみではないかと思われます。ユニークという点では世界一と言っても過言ではないでしょうか(歌詞の古さも世界一だと思います)。

 

さて、あらゆる音楽にコード進行がなければならない、という感覚はまさにルネサンス前後に成立した西洋近代音楽のテーゼであり、このテーゼがロックから演歌まで今日日常的に聴かれる全ての音楽を支配しているわけです。中にはジャズのように、その本質がコード進行のみ、というような極端なケースもあります。逆に、このようにコードが「進行する」、すなわちさまざまなコードの組み合わせのパターンで曲を作るということが西洋近代音楽とそれ以外(=世界の伝統的民族音楽)を分けるものである、と言うことができます。

 

さて、本題の君が代ですが、これは雅楽の「律旋法」によっていると言われています。「旋法」というものに関する一般的な誤解は、これが一種の「音階」すなわち一つのメロディに使用可能な(制限された)音のリストであるというものです。旋法は音階ではなく、旋律の構造、作り方を規定するもので、どの音で始まってどの音で終わり、その間どういう旋律パターンが利用されるか、といったことを規定するものです。従って、オクターブの同一性(高さによらず同じ音名は同じ意義を持つ)は必須ではなく、また律旋法に見られるように上行と下行が異なることも普通にあり得ます。

 

私は、世界の民族音楽の世界は「旋法」派と「倍音」派に概ね分かれると考えておりますが、いずれの場合も「コード進行」という概念がないことが特徴です。旋法の枠組みは、その中心となる音を指定するものであり、それが複数(五度とか四度とか)である場合はコード(和声)が存在すると言っても差し支えないと考えますが、それが決して「進行」しないところがポイントです。これは別に「原始的」などという話では全くなく、それによって曲の個性を明確にしている、ということです。

 

以前にネットで「君が代はドリア旋法」という説を聞いて腰が抜けるほど驚きました。「レ」で始まって「レ」で終わるメロディからそういう発想が出てきたのだと思いますが、旋律のありかたを見ますといわゆる教会旋法としての「ドリア旋法」とは無縁であることがよく分かるはずであり、これがまさに旋法と音階を混同している、という典型だと思います。ましてや近代の教会旋法は近代的な「コード進行」との妥協の上にできたものであり、れっきとした西洋近代音楽のスタンダードの上に立脚しているものです。

 

結論的に言えば、君が代を本来の形で理解しようとすれば、進行するような「コード」ではなく、単一の和声あるいは旋法の枠組を感じさせるような演奏の仕方によらなければならない、ということかと思います。しかしながらエッケルトの魔力(あるいは呪い)は誠に強力で、私も決してそれを免れていないことを告白せざるを得ません。しかしもし君が代単体を虚心坦懐に聴くことができれば、それ自体なかなかすっきりした旋律だと思うのですが、いかがでしょうか。

 

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ご存じない方のために念のため注釈すると、「エッケルト」というのは明治時代に来日したお雇い外国人の軍楽隊指導者で、エッケルト編の「君が代」は私の世代であれば前の東京オリンピックで聞くたびに感激したことで、頭に焼き付いているものである。

 

ご存じの通り、「君が代」の旋律は宮内庁雅楽師の奥好義が作り、雅楽師代表の林廣守の名前で発表されたものである。旋律は「律旋法」によって作られていると言われているが、何となくメロディに洋楽を意識したような気配も感じられ、完全な雅楽であるとは言い難いかもしれない。しかしいずれにせよエッケルト的な西洋近代和声を当てはめることには困難があるものであって、過去いろいろな編曲が試みられてきている。

 

今回のオリンピックでは流石にナマのエッケルトではないだろうな~という予感があったのだが、聞いてみると(編曲者についていろいろな情報が流れているが)微妙な印象派風和声が付けられていてなかなか凝っているものの、全体としては「ユニゾンで始まりユニゾンに終わる」というエッケルト流を踏襲しているところから見て、ベースとしては西洋近代和声の拡張版、というところなのだろうと思われる。misiaさんの壮大な歌唱力を生かすためには、こういう「ぼかした背景」が一番ふさわしいのかもしれないと思う一方で、エッケルトの編曲の巧みさとその呪縛にも、改めて思いを馳せることになった。

 

ではどういう編曲の選択肢があるのかと追及されるかもしれないが、実のところ曲自体のあいまいさもあり私などにはとても代替案を示すことができるような代物ではない。例えば、日本の独自文化を前面に出して雅楽的な特徴を強調するのであれば、琵琶と筝によって旋法の主要音を強調するとか、笙あたりで旋律を一部重複するというようなパターンが考えられるが、こういう巨大劇場の場で相応しいかは疑問だ。そうでなければ結局「全部ユニゾンで」というような解決法になるのだが、それではあまりに芸がない、ということになると、今回の「君が代」はそのあたりの隘路をうまくすり抜けたものと見ることもできるかもしれない。

 

というわけで、今回の開会式に関する私の感想はやや辛口のものになったが、そうは言ってもこれだけの巨大イベントをつつがなく終了できたことは立派な成果だし、パラを合わせて閉幕まで何事もなく進行してほしいものである。日本人選手の活躍にも大いに期待するところである。いずれにしても、日本人にはこのオリンピックが8年前に決まった時に宝くじに当選したような昂揚感があったと思うが、海外の人間から見ると、このオリンピックを実行するのは日本人の義務であると考えられているであろうことを、われわれは改めて認識しなくてはならない。改めてオリンピックの成功と合わせてコロナ禍への影響がないことを切に祈るものである。

 

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