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カフェ・モンタージュ

こういう「音楽ブログ」をエラそうに公開しているので、いろいろなコンサートに年がら年中通っているように錯覚されるかもしれないが、実は私は知り合いの出ているアマオケのコンサートなど以外では滅多に演奏会に行くことがない。その最大の理由は過去仕事をしていたころは「時間がない」からであり、仕事をセミリタイアした今では「金がない」からである。毎週のようにいろいろな演奏会に行って、その演奏の違いをSNSなどにアップされている方を見かけると、実にうらやましく思う。その一方で、私の場合そもそも「実際の演奏の微妙な違い」に対する感性が低く、どちらかというと楽譜を買って頭の中で理想の演奏を「妄想する」ほうが趣味という性格から、実演に行くのが面倒だという引きこもり的な発想があって、どうも会場に足を運ぶ気力が出ない。

 

そんな私が、なけなしの小遣いで定期的に顔を出しているのが、京都の夷川柳馬場にあるライブハウス「カフェ・モンタージュ」である。京都にお住まいのクラシック音楽好きの方なら今更説明不要かもしれないが、昼は半地下の喫茶店で、夜は月に5~10回ぐらいのコンサートが開かれる収容人数50人前後の小さな演奏会場である。ここで開かれる演奏会はおよそ1時間前後で一般の演奏会の半分だが、その分入場料が安く、またそれほど聴きたいわけでもない曲をプログラム構成の都合で聴く必要がなく、本当に聴きたい曲だけを絞り込んで聴けるのが代えがたいメリットである。

 

広い会場ではないので、演奏されるのは独奏や室内楽、一番大勢が出演する場合でもせいぜいピアノ五重奏ぐらいまでである。客席とステージの区別もなく、私は家が近いので開演の30分前に行って一番前の列に陣取るのだが、演奏者との間の距離は2メートルほどしかない。かつてパガニーニの無伴奏カプリスを全曲弾くという企画があったが、私一人のために弾いてくれているような錯覚を感じた。ハープなどというものは普段オーケストラの一番後ろ、遥か彼方でかすかに鳴っているのが常識だったが、目の前2メートルのところでハープが鳴ると桁違いの迫力である。

 

何と言ってもここの売りはその選曲のセンスである。古楽から現代曲まで、さらに邦楽までレパートリーは幅広いのだが、もうここで聞き逃すと一生実演は聞けないというような稀曲が聴けたり、特別なテーマに沿っての仕掛けがあったり、誠に興味津々である。ここの最大の魅力は実はオーナーの高田さんの演奏前のコメントなのだが、最近コロナ感染への配慮から会場内での会話が禁止になり、このコメントも省略されているのが誠に残念である。(ホームページではコンサートの企画に関するいろいろな話題がブログとして掲載されているので、それを読むことで少しながら補われている。)また、コロナ前は演奏終了後に演奏者との交流の場もあったのだが、これもコロナ終息後は是非復活してほしいものである。

 

上記の通りここでのレパートリーは有名名曲から知られざる名曲まで広範囲にわたるのだが、私としては自分の趣味である近現代物を中心としたコンサートを中心として拝聴している(もちろん時間と金が許せばすべてのコンサートを聴きたいところだ)。先月は松本和将さんのスクリャービンのソナタ(2、3、5、9番)のコンサートを聴きに行ったのだが、鬼神のような強靭なテクニック、一瞬腰を浮かせるほどのすさまじい打鍵の迫力に、悶絶また悶絶のコンサートだった。もちろん普通の広い会場でも十分迫力を感じられるだろうが、手の届きそうなところでピアノの打楽器性がフルに発揮されると、もう半端な衝撃ではない。終わった後は相当調律が狂っただろうなというぐらいの演奏だ(高田さんはご自分で調律されるので何ら問題はない)。もちろん単なる迫力ではなく、繊細なフレーズにも傾聴すべきものが多々あったのだが。

 

このブログでも何度か取り上げているのだが、「臨場感」というものが何に由来するのかは本当に微妙な問題だ。高級なオーディオ装置で(そんなものは持っていないが)、必要であれば演奏者の動画などを見ながら聴けば、別にわざわざ会場に行かなくても同じではないかという理屈になりそうな気はするのだが、実際に音楽が生み出される現場に行くたびにそういう発想が覆ることが多い。今回オリンピックが無観客で開催され、そのこと自体は感染防止のためにやむを得ない措置であるのだが、観客の参加という「祝祭性」が大きく損なわれたことは痛手だろう。「祝祭」というものは単なる儀式ではなく、観客が「見るだけ」ではなく事実上その中に「参加する」ものである。祝祭においては観客の期待、あるいは場合によっては声援が演者と相互作用し、それによって「盛り上がり」が増幅される(内容によっては「盛り下がる」こともあるだろう)。

 

コンサートの場ではもちろん演奏中に声援を送ることは今日マナーとしてできないが、それでも聴衆の期待や演奏の一回性などによって場の緊張が高まり、演奏者にそれが影響するとともに聴く方にも意識の覚醒と傾聴する姿勢を生み出すような相互作用が存在すると思われる。録音したものが何回かの演奏のうちのベストであると考えられるのに対し、実演はある意味常に即興である。聴衆はそういう即興の場に身を置いているという意識、緊張感を常に持ち続けることになる。そのあたりが臨場感の正体であろうとは思うのだが、結果として演奏会には脳内神経伝達物質の分泌を促すような呪術性があるということを、いつも感じずにはおれない。(どうもこの話は、いつも具体的な何かを示すことができず不完全燃焼に終わるのだが…)

 

実を言えばコロナ拡大後、カフェ・モンタージュは入場客を少人数に制限し、それに対応する形でネットでの配信を開始している。このネット配信も実に捨てがたいのだが、やはり実演を目の前で聴く感動には代えがたいものがある。コロナのこの1年半の間はずっと足を向けなかったものの、接種を終えた今、また尖った企画のコンサートに顔を出させてもらうことを楽しみとして期待するところ大である。

 

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コメント: 2
  • #1

    中村有陽 (金曜日, 06 8月 2021 20:56)

    こんにちは
    様々な楽曲を間近での演奏を鑑賞できるのはめったに得られる機会ではないで、僕ならきっとその場居合わせたら演奏とはこう言う生々しさがあったんだと感心して、その後コンサートホールの舞台上で演奏している方々を鑑賞することがあったらそのことを思い浮かべて、より音楽に興味を抱く事になりそうです。

    それに、もしかするとカフェ・モンタージュの空間ににフィットする楽曲を作りたくなるかもしれませんね。

  • #2

    有山晃一 (土曜日, 07 8月 2021 10:41)

    中村さま

    コメントありがとうございます。本当にそうですね。音が生まれる現場に居合わせることによって「生々しさ」が伝わってきて、音楽というものは単に音だけではなく、五感の情報や現場の空気などいろいろなものが合体したイベントであるということを感じさせられます。

    カフェ・モンタージュのメリットであるインティメートさが最高度に発揮されるような曲が作られれば素晴らしいと思います。あるいは、何か観客とのインタラクティブな関係を生じるようなモノとか。私もヘボ作曲をするのでチャレンジできればと思いますが、まあ聴衆にご迷惑でしょうね。(^_^;)