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「音楽の哲学入門」(1)

<最近読んだ本>

「音楽の哲学入門」 ― セオドア・グレイシック著 源河亨・木下頌子訳 慶応義塾大学出版会

 

半年以上ぶりのブログ再開である。依然としてブログなど悠長に書いている状況ではないと思うが、さりとて何もしていない時間を悶々と過ごすのも精神衛生上いかがかと思われるので、とにかく本でも読もうか、折角読んだのならブログでも書こうか、という流れになっている。

 

どうも最近「音楽の哲学」を冠した本に意識が集中して、本書と「演奏家が語る音楽の哲学」というのを続けざまに読むことになった。後者についてはまた別項でご紹介するが、今回はとりあえず「音楽の哲学<入門>」である。「哲学」というだけでなにがしか憧憬と畏怖の入り混じった複雑な感情を抱いてしまうのだが、本書の原題は「On Music」であって、音楽に関する基礎的な問題を考える趣旨で、内容も多くは形而上的なものではないし、「入門」というほどレベルを落としているようにも思われない。本書の内容は、音楽に関する誰もが抱く疑問について考えたもので、下記4項目に分かれている。(カッコ内は有山の注釈)

 

    「耳に触れる以上のもの―音楽と芸術」(鳥の歌は芸術か?)

    「音楽とともに/言葉なしに―理解して聴く」(音楽に言語情報は必要か?)

    「音楽と情動」(音楽と情緒の関係は?)

    「超越へといざなうセイレーンの声」(音楽におけるスピリチュアルなものとは?)

 

以下、私の感想になるが、本書の内容については私の理解した内容を自己流にお伝えしているので、著者の真意と離れる可能性もあることをお断りしておきたい。

 

まず①であるが、(筆者の言う)「芸術」は文化的背景を持って成立するものであり、したがって音楽はすべて芸術であると言える一方、鳥の歌は芸術ではない。鳥の歌は何らかの目的に支えられて行われるもので、目的外の情報の蓄積を活用している気配はない。これに対し音楽は文化的伝統を反映するものであり、特定の目的下で行われる鳥の歌とは根本的に異なる。「文化」は単なる社会性を超えるもので、信念や価値体系といったものが社会の中に存在することを指す。「音楽」を指す言葉はどの文化にも存在するというのがその証拠である、というのが著者の主張のようである。

 

ここで言われている「芸術」(原文は多分”art”)は、私にとっての(日本語の)「芸術」のイメージ、高い価値を持つ創作物を意味するイメージとは乖離がある。例えば、わらべ歌は一種のアートかもしれないが、芸術かというとやや違うような気がする。しかし、とりあえずあらゆる音楽が芸術であるという著者の主張に沿って話を進めると、どうもこれは音楽を構成する認知の枠組みが単なる生理的条件によって決まるのではなく、人間の社会性を前提にした知的営為によって決まる、ということを述べているようである。

 

私は音楽というモノについてもう少し広い定義を考えている。私の音楽の定義は「言語(記号)音でない音の構築で、容易に意識を集中できかつ集中を持続できるように、また可能であれば繰り返しの集中に堪えるように構築されたもの」である。鳥が仲間の鳥に対して「集中させる」ために歌う場合も、それは彼らにとって私の言う「生存活動」(実質的な言語)であろうと思われるので、音楽ではない。逆に鳥の歌や波の音に意識を集中する人がいて、その人にとってそれが妙なる音楽と意識される場合も、それが繰り返しの集中に堪えるように構築されたものでないことからして、客観的には音楽と認められないだろう。

 

しかしながらこういう考え方ができる条件として、他人が集中できるような音楽を作ったり、他人が作った音楽に集中したりできることは、音楽の社会的性格のためであると言うことができる。音楽が「構築された音」であるとしても、「音の構造」が必ず認識できるわけでないことは自明である。すなわち、音の構造はそれまでに蓄積され社会的に共有されてきた認知の枠組みやイディオムによって認識されるのであり、その意味で文化的な背景を高度に反映するものであると言うことができる。

 

とは言え、鳥の歌を楽しむのも立派な「音を材料とした文化行動(私の用語では「余暇活動」)」であり、一種の音楽行為であることは間違いない。かつ、それは一般的な「鳥の歌」という構築原理によって構築された音であって、無秩序な騒音ではない。従って、鳥が「人間の余暇活動に資するように歌おう」とは微塵も思っていなくともそれは音楽として認識される可能性がある。そういう点からすると、この著者の鳥の歌に対する態度はやや不当(?)なものに思われなくもない。

 

続いて②の、音楽と言語情報の関係である。音楽は余計な情報を排除して「純粋に聴く」ことだけがその価値を確認できる方法なのか、それともいろいろな言語情報も真の音楽の理解のためには有益なのか? 特に「歌」とか「標題」とか、音楽以外の情報が音楽に付属している(あるいはそれらに音楽が付属している)場合は、言語情報を含めて音楽を聴くことが前提になっているが、それはベストの音楽体験なのか?

 

これに対する筆者の見解は、どうもいろいろな例示に紛れて結論が分かりにくい(翻訳のせいばかりではないように思う)が、基本的には言語化された情報も言語能力を前提とした概念的枠組みや文化の共通基盤も、音楽の理解を損なうよりはそれを助けると考えているようである。著者の例示によると「局所的な音楽的性質および大局的構造」(いわゆる音楽理論)、「歴史的性質」(作者とか時代とか)「美的性質」(音楽の持つ各種性質に対する評価、意義付け)のそれぞれについて、言語情報とそれが伝達する文化的背景が重要な役割を果たす、といった話が論じられている。

 

さて、この問題に対する私の意見は極めて単純明快なものである。ショーペンハウアーは、オペラのような筋書きや歌詞が単純に音楽を聴くことの理解を妨げると考えたが、それはあくまで「音楽側」からの見方である。「世界と同型に分節」されているべき言語は、我々が日常的に身を置いている世界を認知するためのものであるから、明確であることがある程度保証されている。しかし音楽は本来何らかの他の情報と対応するように構築されるものではない(私は言語を「記号系の情報」音楽を「独立系の情報」と呼んでいる)。音楽においてはそれを構成する音の関係をそれぞれ認識しなければならず、しかもそれらの相互の関係数は小さな曲であっても膨大な数に上る。したがって、それを認識させるためのなんらかの助けがない限り、電話帳を暗記するような「知性」のみでそれを把握することは不可能である。私はそのような助けを「支援」と呼んでいる。

 

音楽の認知を支援する方法は数限りなく存在する。利用される音の種類や組み合わせを限定することは言語の場合と同様必須の手段である。そうして、それら音の配置のパターンも文化と伝統によって強くコントロールされているのだが、そういう「様式」にも科学的(物理的・認知科学的)な裏付けが存在することは想像に難くない。しかしそれで終わりではなく、音楽はほかにもあらゆる手段を使って明確な認識を求めていく必要がある。その一つが著者の言う「言語情報」(そのすべてが「言語」なのかという疑問はあるが)であって、それは音楽を説明するための音楽用語に始まり、「歌」「オペラ」「標題」というような様々なレベルにおいて言語による支援が行われていると言うことができる。

 

しかしこういう考え方に大きな異論があることは承知している。「歌」のような総合芸術は、音楽を支援するために言語が追加されたものではなく(そういうケースももちろんあるだろうが)、むしろ一つの幹から派生した二つのジャンルである、という強い主張が存在する。音楽の起源に関する問題はいましばらく置くこととして、私の言いたいことは、この話は「音楽側」からのみ検討することは適切ではないということだ。つまり、言語が音楽を支援するケースは多数見られるものの、場合によっては音楽が言語を支援することもある。それは「支援」という言葉が相応しくないと思われるかもしれないが、現実にメロディと歌詞を別々に覚えるより歌を覚える方が記憶に残りやすいという事実、伴奏音楽がドラマや映画に与える迫力、などを考えると、相互に支援していることは疑いえないように思われる。

 

だから私は、音楽純粋論者的に「音楽に余分な言語情報が付着すると真の音楽享受ができなくなる」などと考える必要は全くないと思う。「月光の曲」という題名が付いていればその曲は「分散和音の静かな曲」ではなく「月光の降り注ぐルツェルン湖」あるいは「月光の差し込む貧しい盲目の少女の家でベートーヴェンがピアノを弾いている」である。しかし冷静に考えてみれば第2楽章や第3楽章にこの題名が相応しくないことはすぐわかる。(昔、父から第2楽章は「木の間を洩れる月光の下で妖精が踊る」第3楽章は「激流のしぶきに月光がきらめく」なのだという解釈を聴いたことがあるが…) そう思う人は、こんな標題に惑わされているヤツは素人だなーと思って、淡々と音の構築に耳を澄ませばよい。それでなおかつ「月光の曲」のイメージに惑わされるのがいやだという人もあるかもしれないが、その人の中では残念ながらそれがすでに血肉になっていると言うことであり、「地球に生まれたのが残念だ」というのと同じで、どうすることもできない話である。

 

したがって、題名がなにがしか適切であれば、すなわち題名が受け手を曲に集中させ、曲を記憶させるのに何らかの役割を果たすのであれば、そういう題名もその他いろいろな言語情報も有用であると言うことができる(すなわち「支援している」)。また、言語によって構築された詩やドラマも(その他舞踏なども)、それを音楽が支援することには大きな意義がある。しかしそういう外的な情報を一切排除した音や詩などに集中できる、あるいは集中したい人にとっては、その方が「純粋」であるという判断になるのはある意味当然かもしれない。

 

むしろ「支援」という表現に抵抗がある人は、言語情報の示すものが曲の「本質」でなければならないという考え方に惹かれるかもしれない。私は適切に支援できるということはある意味その情報が「本質」に迫っているということ、すなわち曲の構築を適切に表現していると言うこともできると考えている。だが、どうも芸術の価値は(ゴッホの靴の絵が農夫の人生を開示する、というような)「真理の開示」であるという考え方が哲学者の芸術観において一般的であり、「美」も「善」も「真」に属するという類のイメージがこの本質論に関連しているような気がする。

 

 

この点については本書の後半2章(第3章、第4章)や、先に挙げた「演奏家が語る音楽の哲学」にも一貫して流れているような感があるのだが、それについての私の考え方は別途それらの項で論じることにする。これらについては長くなるので次回に譲りたい。