前回に続いて「音楽の哲学入門」(セオドア・グレイシック著)の後半部分について検討する。まず③の音楽と情緒の関連である。拙著をご覧いただければ、これに関する私の考え方は概ねご認識いただけると思うのだが、再度ここで説明させていただくことにする。
まず著者の論点を整理しておく。音楽には「喜ばしい曲」といったイメージを与える力(表出的性格)があり、人間にはそういうイメージを敏感に受け取る力がある。かつそのようなイメージを与えるパターンは文化的伝統によって形成されている。従って、音楽と情動が結びついているように見えても、それは作者の情動の表出を意味するのでなく、単なる文化的取り決めに過ぎないのかもしれない。
著者は次に音楽が「情動を表出する(いわゆる表出説)」のでなく、「聴く者に特定の情動を喚起する(いわゆる喚起説)」を検討する。もちろんそれは一人称の情動、すなわち悲しい曲を聴けば聴いた人間が悲しくなる、ということではありえない。それはむしろ「誰かの」情動、すなわち悲しい曲は一般的に人間の心に生ずる悲しい気持ちを聴く者に想起させる、というのであるが、著者はこの考え方も否定する。それはやはりそのような情動が文化的な取決めによって左右される以上、音楽自体の自然な表出的性質ではない、という点にある。
結論として著者が提示するのは、音楽は特定の情動を表出あるいは喚起するのではなく、むしろ芸術的な表出は個人的な情動を排除するというものである。(著者は音楽が情動の表出であるというロマン主義的な発想を転換するため、ヒンドゥスターニー音楽の名手ラジ・クマールの「美的な雰囲気への脱個人的な没入」という表現を引用している。)
私に言わせれば、この結論も決して驚くようなものではない。この件に関しては拙著でもご紹介した「悲しい曲の何が悲しいのか」(源河亨著)が、専門家らしく様々な学説を網羅していて分かりやすいのだが、ちょっと考えれば当たり前の話ではある。悲しい曲と言えば私の場合、中学時代に聞かされた「ペール・ギュント」(グリーグ作曲)の中の「オーゼの死」とかが浮かんでくるのだが、それはドラマとして「悲しい話」、すなわち登場人物の悲しみに共感できる話には違いなくとも、そのドラマあるいは音楽で誰かが悲しくなるわけではない。私の場合恥ずかしながら、自分で作った曲を聴いてみて古今の名曲との落差に「悲しく」なることはあっても、それを一般的に「悲しい曲」とは言わないだろう。
拙著にも書いた話だが、例えば上記「オーゼの死」にも使用されている半音階の下降メロディがあれば、その音楽が「悲しい場面を表現している」というクラシック界の「音楽修辞学」的合意が存在するようである(これを連続した「ラメント・バス」などというものもある)。ただしそれが単なる文化的合意のみかどうかは考えてみる必要がある。上向きのメロディラインは追加のエネルギーを必要とするように感じられるし、下向きであればその逆である。「悲しい」心理は外部に対しエネルギーを発揮できないような脱力状態と考えられ、また「しみじみと悲しい」時は急激なエネルギーレベルの変動より半音階のように動きの小さいものが相応しいと考えられるので、こういうメロディラインが「悲しみ」と結びつくことは不自然ではない。(長調と短調、陽旋法と陰旋法の対立にも、これと似たような事情がありそうな気がする。)
しかし一方で、音楽には「疾走する悲しみ」というシロモノも存在する。「悲しみ」は通常精神活動の沈滞を表すので、それが「疾走する」ことは考えにくい。しかしこの曲は短調という、伝統文化的に悲しみを表すとされる調で作られ、かつ上記の「半音階降下」がこれでもかというほど詰め込まれている。すなわちこの曲はまさしく「疾走する悲しみ」を体現していると言うことができる。実に気の利いた、的を射た表現だとは思うが、それが「情動」(あるいはショーペンハウアー的な「普遍的意志」)なのかと言われると、何とも言えない気がする。
そのような「情動」は個々人の持つ個別の情動ではなく、「普遍的な情動」であると言われる場合もあるが、なぜそれを情動と呼ばなければならないのだろうか? どうもこの問題の本質は、音楽の与える表象を「情動」と呼びたい衝動にあるように思われる。著者も述べている通り人間には対象物を擬人化する傾向があって、「悲しい音楽」という表現を使うと音楽自体に「悲しい」という属性が存在するということになり、さらにその曲自体が「悲しませる」ような曲であるという風に論理が遡ってしまう上に、しまいには「その時作曲家の中に悲しい感情や悲しい事情が存在した」という、往々にしていい加減な物語が作られてしまう。
そうは言っても上に記載したように、特定の形式を情動と関連付ける理由はやはり存在するし、ややこしい音楽形式を示すよりも「悲しい曲」「疾走する悲しみ」のほうがずっとピンとくることは間違いない。それが形式の認識を支援し、あるいは「悲しい物語」のような言語情報を伴奏音楽が支援できることは、このような相互支援関係が人間の認識様式の深いところに根差しているれっきとした証左であるとも言うことができる。
さて、以上本書①~③については、記述に回りくどいところがあっても特に異を唱えるべきものはないのだが、一番難しい(あるいは一番興味深い)のが④の「音楽と崇高さ」の問題である。これは本書の中にあって哲学に片足を踏み込んだ話題であり、正直私にきちんと理解できているとは言えないのだが、一応話の筋道を追ってみたい。
まず、著者は「言い表せないものは『示される』。それは神秘なのだ」というヴィトゲンシュタインの格言を引用して、音楽の語りえなさ、神秘を啓示する力について語る。もちろん、どんな音楽も言語で表現できる範囲は限られており「語りえなさ」は存在する。しかし著者は「音楽が伝達するもの」自体が超越的なものである場合は、それは語られるのではなく啓示されるのであって、それこそが「音楽的崇高さ」であると主張する。
ここで著者は「美と崇高さは異なる」というカント的な考え方を提示する。後のところで「崇高さは美的性質である」という発言もあるので、これらをどう解釈すべきなのかはなかなか難しいが、とりあえず「単なる美」と「崇高の美」とは異なる、という意味に解釈しておく(翻訳の問題もあるかもしれない)。例示を見ると、ベートーヴェンは(既往の音楽理論から見た)「美」を追求する代わりに、畏怖や驚愕をもたらすような「崇高の美」を創造したというような、ロマン派初期に形成された思想が紹介されている。
※カントにおいて崇高なものの典型は「自然」であり芸術、とりわけ「感覚遊戯」にすぎない音楽ではありえないように思うのだが、その後のどこかでこういう考え方の路線変更があったようである。
私などから言うと、この段階ですでに疑問の山が生じるのだが、いましばらく本書に付き合うことにして、続いて著者は音楽の美的性質に関連してショーペンハウアーの音楽思想を紹介する。これはすでに前回の②において触れた点だが、それによると音楽は「普遍的意志の力」すなわち本来の世界のあり方を示すものであって、その他の芸術のような本質的に概念性が存在し、それに対する主観性に汚染されるようなものとは異なっている。したがって、彼が音楽特有の美を見出すのは純粋器楽においてであって、オペラ、歌曲。標題音楽など「概念的思考」に依存したものではない。(ついでながら、彼は純粋器楽に「崇高さ」を認めないという見解を持っていたというのは意外といえば意外だ。)
前記②におけると同じく、著者はこれに対して、ほとんどの音楽には文化的理解に裏付けられたスタイル上の慣習があることから、そもそも「概念的思考」を排除すること自体が無理なのだと主張する。「概念や文化的慣習の存在は、語りえないものを示すという音楽の能力を押さえるどころか、むしろ解き放つ」というのが著者の考え方で、これが本書を通じた著者の主張であると言うことができる。そのような「語りえない」ものの中で著者が注目するのが、先に登場した「音楽における崇高さ」である。
著者によれば崇高さは個人の心の中にのみ存在する主観的なものではない。「美的性質の経験は、(情動と同様)その経験を引き起こした対象や光景についての判断である。」したがって、崇高さは対象に即したものである。崇高さを構成するのは「圧倒される感じに伴う畏怖・驚き・感嘆・快」さらに「恐怖や旋律、理解できないことの苦痛」であり、それに先立つ「自分が認知的混乱に陥っているという判断」「圧倒的な光景や出来事の前では自分など取るに足らないものだという認識」が、そのような情動を引き起こすものである。すなわち、「知覚者が鑑賞しているのは、まさに秩序の喪失と、それに伴う自己の感覚の喪失」であって、この経験は単に音楽の表現が語りえないという以上に、伝達されるべきものの語りえなさを付け加えるものである。
最後に、著者は「崇高さ」と音楽様式の関係を「例示」という用語で表現する。ショーペンハウアーは、普遍的な言語である音楽は慣習や伝統に制約されず、音楽による啓示は仲介者を必要としない(「ベートーヴェンがピアノを弾いているのではなく、ピアノがベートーヴェンを弾かせている」)というような主張を行うが、著者はこれに異議を唱える。音楽には様々なスタイルがあるが、特定の美的性質、たとえば「崇高さ」をもたらすような音楽は、そのような性質を「例示する」、したがって、著者が何度も繰り返すように作曲家は自らの文化的伝統に従って、クラシックでもジャズでもインド音楽でも、崇高な経験を与えるような音楽を創造することができる。
なかなか論理の展開についていくのに骨が折れるが、著者が言いたいことを簡単に言えば、音楽の創造は常に文化的伝統と何らかの関係をもって行われるものであり、そういう自らのスタイルに従って崇高さを聴き手に経験させることができるような音楽を作ることができるということのようである。私にとって最大の躓きの石となるのがこの「崇高さ」という概念なのだが、著者の挙げている例で言うとブルックナーの緩徐楽章やセロニアス・モンクの「ラウンド・ミッドナイト」には崇高さを感じさせるものがあり、ジョン・ウィリアムズの映画音楽や「マイ・フェア・レディ」の音楽には存在しない(どうも著者は劇伴音楽が苦手のようである)ということらしい。
私の本業は法務アドバイザーなのだが、契約書をチェックするときに一番気を遣うのは、文意に疑問の余地がないか、用語の定義がきちんとしているかどうかである。法的文書はかなりその用語が厳密に定義されているのだが、それでも相手は抽象世界でなく現実世界なのでかなり曖昧な用語も存在するし、そうしておいた方がいい場合もある。一方、きちんとした議論をする場合はむしろ自然科学の用語のように、一切の疑問を残さないような表現が望ましい。
では本書に言う「崇高さ」はどのような概念だろうか? 著者がそもそも「語りえない」ものであると言っている以上もちろん言葉では定義できず単に「啓示される」ものであり、我々はその例示(上記のブルックナーなど)に触れるしかないのだろう。とは言え実際ここに挙げられているような「崇高さ」を感じさせる音楽というものには、ある一定の方向性があるような気がすることも事実だ。それが「自らの存在が崩壊するような感覚」という類の表現で具体例を特定できるのか、というのはやはり疑問なのだが、私なりに解釈すると、それは、
a) 対象物の何らかの特性によって、その構造を正当に認識・評価することのハードルが非常に高い。
b) それを認識するためには対象に対する非常に深い集中が必要であり、逆に認識できた場合は深い集中に入ることが容易となる。
c) 認識できたと思っても、それに至るハードルの高さを考えると、正当に認識できているかどこまでも不安が残る。
といったことではないかと考えている。
※このようなカント的「崇高さ」はなにがしか「自然―創造主」といった連想を感じさせるのだが、著者はそれが「一神教の伝統」と関係がないことを、ジャズやインド音楽に見られる崇高さを引き合いに出して説明している。
こういう「音楽の哲学」のような本を読んではいても、個人的にはいわゆる哲学や形而上学のようなものは苦手中の苦手なのだが、この種の言説を見ると「超越」ということに対する感覚の違いが如実に感じられる。それは「言語では捉えがたいが、何かが存在する」という信念のようなものである。私のように軽いノリの人間にとっては、それらすべては「文化的な実体、差異」であるのだが、著者のような「信念の人」にとっては「あらゆる様式は文化的な背景を持って存在するが、しかしそれだけではない何か、『崇高なモノ』が存在する」ということになるのだと思う。
だからして本書の流れは、例えば様々な言語情報が音楽を支えていたり、音楽が示す情動が文化的な背景によるものであることは認めても、それでもなおかつ「何らかの普遍的な価値」が音楽には存在する、という点だけは決して譲れない、ということになるのだろう。しかし私にとってはそのような「崇高」という形容詞も音楽の様式が示す一つの方向性にすぎないのであって、ブルックナー(私は好みだが)の方が「マイ・フェア・レディ」より高級な音楽である、という結論はどうも受け入れがたいものである。
「普通の美」「崇高(の美?)」を区別しなければならないような美の概念とは一体何だろうか? 私にはどうもこういう議論は「美」の定義の混乱を示しており、むしろ「美」を定義することが原理的に不可能であることを示しているような気がする。私には「趣味の判断」に属する好ましさとしての「美」も、それを超越した「崇高」も、結局「語りえない」点においては同じであるように思われる。「ブルックナーが美しい」と表現することには何の問題もないが、こういう「美」を共通の土俵において議論することはできない。「好ましい性質を美という」などと言ってみたところで、「美味しいですね~」としか言わない食レポキャスターと同様トートロジーから一歩も出るものではない。議論から「音楽美」を追放したいというのが私の(多分アナーキーな)考え方である。
さて、この種の議論の延長線上に「音楽の内容」あるいは「音楽の本質」というようなテーマが垣間見え、それが次回予定しているブログを準備するもののような気がしているので、またよろしければ(いつになるか分からないが)次回のブログを是非ご覧ください。
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