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「臨場感」ー多川響子コンサート

昨日はご近所で開かれた多川響子さんのピアノ・コンサートに行ってきた。コロナ騒ぎでここしばらく実演を聴いていないので、久しぶりの演奏会だ。多川さんとは、演奏会のアンコールの編曲を手伝わせていただいたのがきっかけで、演奏会のご案内をいただくようになったお付き合いである。会場は青蓮院の前にある「旧山中商会パビリオン・コート」で、明治~昭和初期に日本や中国の美術品を米国に売りまくって巨万の富を作った会社の展示場だった建物だが、今は結婚式場や小規模イベントに使用されていて、中はレトロな雰囲気を保ったままのなかなか立派なホールになっている。

 

曲目はショパンのノクターン2曲に2番のスケルツォ、ラフマニノフの前奏曲集から2曲、リストのリゴレット・パラフレーズ、休憩をはさんで多川さん得意のベートーヴェンの「熱情」というプログラムだった。実演を聴いたのは久しぶりということもあるが、多川さんのピアノの熱量がすごく、「ロマンチック」に身を委ねる貴重な2時間だった。曲目にしても多くの曲が技巧と迫力を表看板にしており、それを連続して演奏する多川さんのパワーにも圧倒された。ロマン派の香りに満ちた繊細なニュアンスも素晴らしいので、パワーばかり強調するのは失礼かもしれないが。

 

いつも思うのだが特に、今回のようなプログラムでは実演でなくてはなかなか感動にストレートにつながらないところがある。例えばリストというような作曲家は、ドイツ3Bをひたすら崇める輩にはけばけばしいばかりに見えるのだろうが(楽譜からも確かにその雰囲気はあるが)、感動に上下というものはない。いい作曲家というものは常に、どうしたら受け手(自身を含めて)に感動というショックを与えられるかということを考えているのであって、超絶技巧の破壊力というものはその一つの頂に至る方法であるということができる。かつその破壊力を実感するためには何をおいても「実演」に触れることが重要なのだ。

 

今時はCDでもYouTubeでも、いくらでも家に居ながら音楽が聴けるので、わざわざ感染の危険を冒して実演会場に行く必要はないのかもしれない。それどころか、今時は打ち込みでいくらでも超絶技巧的な曲を演奏することができるので、人間では演奏できないような複雑怪奇な曲もいくらでも音にすることができる。ところが、家で(例えば家人の留守に)爆音でCDなどを聴いてみても、どういう訳かこの種の曲の破壊力の真価を実感できることは少ない(家にまともなオーディオがないという事実の問題ではないような気がする)。MIDIなどで作られた音声に至っては、いかによくできていても「おもちゃ」とか「ロボット」という感想がどうしても付きまとう。

 

この「臨場感」が何なのかという問題については、いろいろ考えてもなかなか正体がつかめない。「演奏者と場所を共有している意識」「『音が直に飛んでくる』感、あるいは『音響に囲まれている』感」「ほかの聴衆とともに音楽に集中している意識」さらには「わざわざ会場まで行った期待感(?)」まで考えるのだが、結論的に言うとそれらのすべてがなにがしか関与しているような気がする。音楽というものは「鳴り響きつつ運動する音の形式」であることは事実なのだが、決してそれだけで成り立っているわけではない。私は音楽という抽象的な音の構造の認識には十分な支援が必須であり、いろいろな音楽形式やそれに付随するテキスト(台本や表題など)、作曲家や演奏者にまつわる様々なエピソードなど、あらゆるものが音の形式の認識を支援していて、あらゆる音楽の演奏はすべて一種の「総合芸術」であると考えるものであるが、このような考え方からは演奏会というのは一種の「祝祭」の場であると言うことができるのではないかと思う。

 

CDやYouTubeの利便性は言うまでもないし、それで毎日音楽を聴いている自分を棚に上げて実演を称揚するのはどうかと思うので、これ以上強調はしないが、改めて演奏会の値打ちというものを実感した一日だった。感染対策を万全にしたうえでの演奏会は多分コロナの拡大にはつながらないだろうと思うので、演奏会の灯が消えることのないように祈るばかりである。

 

 

ついでながら、この日最後に演奏された「熱情」だが、聴き慣れてしまっていてほとんど意識することはないものの、改めて聴き込んでみると誠に奇妙な前衛音楽であることが分かる。特にこの曲の第1楽章にはほとんど分散和音しかなく、それを執拗に繰り返すことで感じられる破壊力は狂気すら感じるものであることを、多川さんの演奏を聴いて改めて感じた。(この問題については改めて検討したい。