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象徴主義と音楽

もう3か月ほど前になるが、ご近所のカフェ・モンタージュでなかなか興味深いセミナーがあったので、関連のコメントを若干記載する。これは19世紀後半のパリの変貌と文学的・美術的潮流である象徴主義を関連付け、それでドビュッシーの歌曲集「ボードレールの五つの詩」の中の「露台(la Balcon)」の構成を読み解こうというものである。

 

残念ながら私はそもそも文学や美術の「象徴主義」についてほとんど門外漢であり、ましてそれと音楽の関連について何かを述べる立場ではないのは十分承知している。しかし音楽で象徴主義と言えばすぐ結び付くのがワグナーだろう。ボードレールとワグナーの関連についてはよく言われるところであり、また初期のドビュッシーがワグナーに強い影響を受けていたことも周知の事実である。

 

音楽における象徴主義とは端的に言って何だろうか? 実は拙著ではロマン主義以降の傾向として「印象主義的傾向」「表現主義的傾向」の二つの方向性をその形式に従って分類するというアイデアを呈示しているのだが、象徴主義については、あくまで象徴対象のある文学や美術の思潮であろうとして、考察から除外していた。

それは間違いではないとは思うものの、現実にこういう作曲家と詩人との交感が存在することを考えると、それを音楽においてどのように位置づけするかは、やはり気になる事項である。音楽史の本を紐解いてみても、音楽史に象徴主義という言葉が出てくるのは、例えばドビュッシーの「ペレアスとメリザンド」は象徴主義詩人メーテルリンクの作品に基づく、といった文学との関連が問題になる場面が大半のように思われる。

 

そもそも、文学や美術の思潮としての象徴主義を考えると、それは対象となる事物を直接に描写するのでなく、それを指し示すものを当該対象の「象徴」として呈示することによって間接的に対象の事物を認識させる、というような方法論を持つものである。したがって、文学においては言語化されない事物、美術においては単純な対象の描写のみで表現できない事柄を、それと関連する事物すなわち「象徴」をもって表現するということになろう。

 

例えば美術においては、理想化されたキャラクターを描写する(新)古典主義美術は、見ただけでその対象と状況を容易に認識できるように作られている。これに対しロマン主義美術においては描写される対象も描写の手法も多様化して、過去の「規範」を踏襲することによる認識の容易さを求めないようになっている。そういう方法論の進展から、一方では対象を「理想化」しない自然主義や写実主義が生まれ、他方では写実を避け画面を独自に構成することによって表現対象を描写しようとする象徴主義美術が生まれる、というようなシナリオを考えることができる。(これはある意味で、古典派音楽からロマン派音楽が生まれ、それが印象主義と表現主義の二つの方向性に分かれていくのとの並行性を感じさせる。)

 

文学についても同様に考えることができるだろう。象徴主義文学と言えば何はさておきボードレールだが、その詩に出てくる憂鬱とか憧憬とか、異常にも感じられる情熱とかは、直接に該当する適切な言語表現がないため象徴によって語られている。ここでは古典やロマン主義初期の時代の「共通の理解の基盤」といったものが存在しないような世界観が表明される。そのような、まだ十分に普遍化しておらず言語化もされていないと思われるものを形にするのが「象徴主義的手法」であって、何らかのアレゴリーなどに託して受け手にそれを感じさせるのが象徴の役割である。

 

さて、音楽についてはどうだろうか。音楽の表象というものは原則として言語化されないものであると考えられる。日曜作曲家として私も「ソナタ」とか「室内楽」とかの「絶対音楽まがい」を作ることがあり、それについて家族や知人に「この曲は何を表しているのか?」と聞かれることが結構あるのだが、それに答えることは大抵不可能である。拙著では、音楽は「言語でない」音の構築という否定的定義を行っていて、当然ながら音楽に言語で表現できるような内容を一義的に求めることはできないという立場をとっている。(初めから文学的テキストに対応した作曲を行っている場合はもちろん除外される。)

 

とは言うものの、「音楽の意味作用」というものを「言語の意味作用」と並行した形で考える向きは多いようだ(※)。しかし、言語の意味作用が「(言語)音の形式」と「意味される事物」とが明確に別物であるようには、「(音楽)音の形式」に対応する何らかの対象が存在すると考えることは難しい。拙著では言語のようなパターンを「記号系の体系」、音楽のようなパターンを「独立系の体系」として、音の形式に対応するものが一義的に存在しないのが音楽の本質であるという見方を呈示している。

※「音楽の意味作用」について、音の形式自体が「内在的象徴」であるという考え方もあるが、そういう象徴の向かう先もやはり音楽の表象に他ならないので、どこまで行ってもトートロジー性が解消できるとは思われない。

 

そういう見方からは、音楽が音の形式によって何かを象徴するということは考えにくい。しかし冒頭にも書いた通り、ボードレールはワグナーに心酔してその影響下に詩作を行ったとされている。そこから音楽における象徴主義と言えばワグナーというのが通り相場になっているが、そのワグナーのオペラを見ると、まさに「指輪」「剣」「聖杯」「媚薬」といった象徴的な物件が登場し、しかもそれらの多くに「示導動機(Leitmotiv)」なる音の形式(旋律)が付随している。これらの「象徴」は劇の中ではそれぞれの物件として登場するのだが、当然それらは劇全体のストーリー構成のキーポイントになっているのであって、単なる小道具ではなく劇に特有の個性を付与するものである。

 

このように音楽においては、テキストと連動した形で音の形式が何らかの事物事象を指示し、それによってテキストの認識をより確実にするという役割を果たしている。これは昔から用いられている音の象徴的な用法、例えば「ラメント・バス」とか「ディエス・イレ」とか「運命の動機(作曲者の意図ではないにせよ)」とかと同種のものであって、ワグナーはそれを各オペラ全体に統一的に適用したという立ち位置である。だからそれは「象徴主義の音楽形式の創造」といったものではなく、形態としては古来の手法を引き継いでいる。但し、上記の各形式が「悲しみ」、「死」、「運命」など、比較的明確な対象を示しているのに対し、「トリスタン」であれば場合オペラ全体の「割り切れない」ような気分、「指輪」であれば北欧神話の壮大な世界観、などより言語化の難しい対象にかかわっている点が、いかにも「象徴主義時代」的な使用法であると言える。

 

ところで、音楽と文学との緊密な支援関係は、このような象徴的事物を音楽によって喚起する手法以前に、音の形式自体が特定のエトスを喚起するという伝統的意識が存在する。長調が明るく短調が悲しいという定式化は、音楽のような抽象的な存在を認識するために、人間が常にそれを理解しやすい現実の事象に引き寄せるという性向を示しており、これによって音楽が文学テキストを支援するという状況が成立している。しかし、そういう関係性は一種我々の生理の一部となっていて、「短調の音楽が悲しいストーリーの象徴となっている」などとわざわざ言うことはない。しかし例えばワグナーのオペラではいわゆる「トリスタン和音」がオペラの「割り切れない気分」を表現するように、特殊な感情、状況、雰囲気のために特定の音の形式が動員されている。こういうものは「象徴主義時代」の音楽特有の現象であると言うことができるかもしれない。

 

以上をまとめれば、言語という形式が事物を直接に指示し、直接に指示しにくいものについては代替の事物(象徴)を呈示することによって間接的に指示するのに対し、音楽の場合は本来的には音の形式以外に対応するようなものは存在しない。しかし現実には音楽は様々な事物や状況との関係をもっており、それらが文学上象徴として用いられている場合は、音楽が「象徴」としての役割の一端を担っている(象徴の認識を支援している)と言うことができるし、さらに「トリスタン和音」のようなものは、テキストに直接奉仕する役割を超えてオペラ全体の雰囲気のようなものを呈示する役割を担っている、と言っても差し支えないだろう。

 

※ ついでに、言語と音楽との「意味作用」の差異について考えると、パースの用語を借りれば、言語の場合ほとんどがソシュール的なインデックス型(約定型)である(明白なオノマトペを除く)のに対し、音楽についてはそのほとんどがイコン型であると考えられる。以前にも述べたが、「悲しい音楽」が短調であるのは長短の三和音に存在する微妙な協和度の差に由来するものであろうと考えられるし、ラメント・バスが下降形であるのは悲しみによって無力になった精神を表しているだろう。また「運命の動機」の示すものはその理不尽なまでの激しさにある。これは明らかに、ここで言う音楽の意味作用が、テキストとの関係においてのみ成立するものであることを意味している(そもそも、インデックスとしての言語が存在する以上、それと同じ機能を音楽が担うことはありえない)。しかし、上述のように「悲しい音楽」と短調の関係などはかなり風化が進んでいて、ある意味インデックスとして使用される段階に至っているのではないかという気がしなくもない。

 

さて、ここまで音楽の「象徴」とのかかわりを文学側から見てきたが、当然この種の手法には双方向性があるのであって、音楽側から見ると、これは新しい音の形式(個性的な和声法とか旋律とか)を明確な個物とする役割を担っているものであると言える。すなわち、「ロマン派」において手法が開放され多様化が進展したことに伴い、新しく創出された音楽対象を個物として明確に認識させるのがこれらの「象徴」の役割である。(ロマン派においては、歌曲やオペラでない音楽の構築方法にも、例えばベルリオーズの幻想交響曲のような「ストーリー性」が活用されるようになる。)

 

例えば、先ほどの「トリスタン和音」は、単にフランス6の和音の一部に解決の延引された倚音が発生することによって生じる和音である。しかしそういう特殊な「個物」が明確に認識されるためには「トリスタン」というオペラの背景と合体した特別なシチュエーションが必要だったのだ。そうして、一旦そういう新しい形式の個物化が完成すると、それをそのようなシチュエーションを離れた文脈でも利用することが可能になる。その結果音楽の表現主義的手法を加速し、最終的には無調的な手法にまで至る途を開くことにもなったわけである。

 

結論的には、文学や美術における「象徴主義」に対して、音楽はそれらの認識を「支援する」という立ち位置であって、その用語に該当する特定の音楽形式が存在するわけではない。したがって、音楽上の象徴主義はあくまで歴史上の「象徴主義的文学」に関連付けてしかとらえることができず、あるいは逆にそもそも音楽の形式は常に何らかの象徴としてとらえられ続けてきた、ということになる。とは言えボードレールはワグナーからスタートし、それを受け継いだ音楽家たちが近代音楽の開花に向けてさまざまな手法を開発する契機となったことを考えれば、音楽が象徴主義という時代を経たことには大きな意義がある、ということも言えるのではないだろうか。

 

以上がこのテーマに関して現時点での私が考えている内容なのだが、実は現状このブログでも乱発している「個物性」とか「認識する」とかいう表現に正確な説明を与えられる自信がないのが正直なところである。この辺りをきっちり解明していくことが今後の本ブログの中心テーマとなると感じている。

 

 

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