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和声とは(2)十二音技法

前回ブログ「和声とは(1)」で我々が通常使用している「和声」の概念についてその本質を考えたが、前回取り上げた本(「ハーモニー探求の歴史」)の最後の部分は、いわゆる三和音ベースの和声概念の拡張についての問題に割かれている。

前回、「五度和声」などの三和音に依存しない和声というものを検討して、それが「和声進行」を形成するための差異の認識に達しないという問題について述べた。しかし20世紀以降の音楽の発展は三和音ベースの和声を解体するところからスタートしている。無調の教祖とされまた十二音技法の確立者でもあるシェーンベルクは、「無調などという音楽は存在しない」と言って、いかなる音楽にもその背景に和声が存在すると表明しているが、それはどのような意味合いにおいてなのだろうか?

 

本書には十二音技法と和声の関係について若干の記述があり、その後に問題の「ピッチクラス・セット理論」についての記述があるのだが、順番としてまず十二音技法について若干検討したい。この技法について詳しくない方のために簡単に説明すると(私も詳しくはないのだが)、オクターブ中の12の音名(ピッチクラス)がすべて1回ずつ使われるユニットを「セリー(音列)」と呼び、このセリー(原型とその移高、反行、逆行型)を組み合わせることで音楽を創ろうという手法である。ここで、セリーは「ピッチクラス」の時系列の順番を規定するものであって、同一ピッチクラスの音はどのオクターブにあってもセリー内で同一の役割を持っている。従ってセリーは「旋律」(特定ピッチの音を時系列に並べたもの)ではない。

 

念のためだが、音楽の伝統的な把握方法は音(個音)の「継起的把握」か「同時的把握」のいずれかであって、前者の場合複数の音が時間的経過に沿って認識され、一個の「声部」とみなされる。この場合複数の音高の差異は「変化」すなわち声部のラインの「上行」「下行」によって把握される。このような特性が「旋律」を形作っている。したがって、それらの音がどのオクターブにあるかが重要であって、その性格はピッチハイト(特定のピッチ)である。一方、後者の場合は複数の音が実際に同時に鳴るかどうかに拘らず、同時に鳴ったときの「響き」(ハモり具合)を特性とするもので、前回述べたようにこれはピッチクラス的な発想である。拙著でも述べたとおり、音高の確定は同時的把握方法によって行われ、それが時系列に配置されることによって継起的な音高把握である旋律が構成される。

 

現実の音楽の制作においてはアルペジオのように同時的に把握されるべき和音でもあり旋律でもあるようなケースもある。その場合、アルペジオは旋律として把握される一方、それが暗示する和声をも呈示していることになる。そういう二重性は常に存在し、アルペジオでなくとも古典的な旋律は和声を暗示していることが多い(「旋律が和声を含んで鳴る」と言われる)。しかしその旋律が特定の和声を呈示する場合であっても、同時に旋律としての把握がなくなるわけではなく、どこまでも二種類の把握方法の存在が意識され、それぞれの運用方法に従うことにより個物性が確保されている。

 

上記の通りセリーがピッチクラスの組み合わせを指定するものであるということは、前回述べた通りそれが同時的構築すなわち「和声」を指向しているものであることは明白である。しかもセリーがピッチクラスの順番を指定するということは、これは一種の「和声進行」の対応物と考えられなくもない。すなわち、セリーはその内部で隣接するピッチクラス群が暗示する「和声」の緩い連続体である、という見方がありうる。

※もちろん、セリーを一個の同時的構成ユニットと見れば、これは「十二音」という一つの和声、伝統的な三和音ベースの和声から最も遠い和声が連続する様式と考えることもできる。しかしそのように見るとセリーの強固なルールから、この様式はどこまで行っても同じ「十二音」の和声が延々と続き、統一感はあるものの曲としての興味を喚起しないものになることは確実である。ただし、これを使えば既往の調感覚から遠い「無調的な」様式が労することなく実現できるというメリットもあることは間違いない。

 

果たしてそのように聞くことができるのかというのが問題なのだが、少なくとも新ウィーン楽派三大巨匠のうちシェーンベルクやベルクがセリーの「和声進行」が聴かれるように曲作りを行ったという形跡は、あまり感じられないのが正直なところではないだろうか。大体、音楽に「和声だけを聴く」ということ自体普通はあり得ないことであって、人は通常本能的に音楽に音の継起的構成をも聴く。たとえそれがアルペジオであっても、そういう音型(=旋律)として聞かれる。シェーンベルクやベルクがセリー中の特定音にある音高(ピッチハイト)を指定するとき、彼らはそこに「旋律として」美しいか、インパクトがあるかという判断を含めているように思われる。

 

伝統的な音楽の場合、先に述べたように旋律は「和声を含んで鳴る」。すなわち、旋律自身が和声を暗示することによって、旋律の各音が和声音なのか非和声音なのかが認識できることが、曲作りの基本である。例えば「青きドナウ」の冒頭(「ドミソ」)は旋律であるが、その認識はドミソの長三和音という明確な個物によって「支援されている」。そのため、この旋律を「ドレミソ」に改変すれば「レ」が非和声音であり旋律の特徴であることが認識されるだろう。一方、十二音技法に非和声音は原則としてない。だから十二音技法で書かれた音群は旋律でもあり和声でもあるのだが、それはこのような「相互支援関係を持たない旋律」が個物として認識されることをさらに困難にしているように思われる。

 

一方ウェーベルンの作品にはほかの要素をそぎ落として、旋律を聴かせるという手法を拒否し、純粋にセリーだけを聴かせようという配慮が感じられるのだが、ここで大きな疑問が生じるのは肝心のセリーの「和声進行」に、認識のための何らかの措置(支援)が行われているか、という点である。

 

三和音による和声の構築は、三和音が与える強固な表象(クオリアと言ってもいいかもしれない)によってそれがユニットであることを明確に認識させることでスタートする。それに対してセリーの和声は「隣接しているいくつかのピッチクラスの集合」というあいまいな形で与えられるので、そもそも「何を聴いたらいいか分からない」という印象を与えることは避けられない。かつそれらは曲やその部分によってすべて形態が異なり、「十二音」であること以外になんらかの「定型」を持つことを想定されていないように思われる。これは「和声」のような捉えにくいものを実体として取り扱う場合には致命傷となる問題である。私は「現代音楽は訳が分からない」という最大の問題点はこういう点にあると考えている。

 

このようにセリーを「部分的な和声の漠然とした連続」と見るのではなく、明確に分節されたピッチクラスの組み合わせと見るのが、ミルトン・バビットの方法論である。現にウェーベルンのある種の作品においても、セリーを4つ、あるいは3つのトロンソン(部分)に等分して、それぞれの部分の持つ特質を構成に生かすということを考えているものがあり、バビットの考え方はそれに集合論を適用して大規模な創作に生かすというものであるらしい。(残念ながら数学と聞いただけで頭が痛くなるが…)

 

さて、このような考え方の発展形として、本書は最後に問題の「ピッチクラス・セット(PCS)理論」を紹介している。本項目はそれについて考えるのがメインなのだが、話が長くなるのでここで一旦稿を改めて続きを次回書くことにしたい。

 

 

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