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「君が代」再考(1)

首相選びとか総選挙とかで、五輪が終わっても相変わらず日本は平常心を取り戻せない日々が続くが、当ブログは「音楽ブログ」なのでそういう問題とは全く関係なく淡々と、2か月ほど前に五輪に関連して「君が代」について述べたブログの補足である。内容的には前回お話したことと同趣旨だが、前回述べた内容で説明不足の点も多々あると思うので、もう少し内容を掘り下げて述べることにする。(話がかなり長くなるので、3回ぐらいの連載を予定している。)

 

さて、オリンピックの開会式で演奏された君が代に各方面からさまざまな意見もあったらしいが、私としては五輪という自己表現の場でああいう新しい試みが行われることは決して悪いことではないという気がするし、MISIAさんの歌唱も、一般に考えられている「国歌らしさ」にこだわらなければ、なかなかの迫力だったと思う(そもそも五輪に今更「国威発揚」を期待する時代だろうか?)。「さざれ」「石の」がワンブレスでなかったという批判があるらしいが、歌というモノがあくまで言語と音楽の総合芸術であることを考えれば、こういったことは程度問題に過ぎないと言うべきだろう。

 

一方、その後開催されたパラリンピック開会式の演出は(特にオリンピックの開会式との比較で)各方面から称賛されているようである。それはもちろん出演者の好演のせいでもあるが、前回のブログでも指摘した通り単なる「寄せ集め」でないストーリー性が明確であったということだろうと思う。音楽で言うならば、いろいろなメロディを寄せ集めた「ファンタジー」式の曲より、形式が明確で各部分が有機的に結合されている曲の方が名曲であるという意識をもたらすのと同じである。「演出家の入れ替えや外野からの注文など、演出体制の混乱がなかった」というのは多分当たっていると思うが、やはり「パラリンピック」というものの性格上、きちんとストーリーを組み立てやすかったという要素が大きい。

 

「分かりやすい」というラインに沿っているためか、パラの開会式での「君が代」は、よりエッケルト的なおなじみの和声付けがなされていた。本家エッケルトと異なりこちらは初めの2小節も最後の1小節半もちゃんと伴奏がついていて、始めは並行和音的な処理でやや調性感をぼかした取り扱い、最後はドリアとしての和声付けになっていたようである。そのあたりをユニゾンでごまかすのがエッケルトの上手いところだと思うのだが、このパラのものはより開き直って「ハ長調からニ短調(ドリア?)に転調した」というイメージが強くなっていたように思われる。しかしいずれにしても立派な編曲と歌唱で、文句をつける点はまったくない。

 

オリンピックの開会式で印象派風の味付けの「君が代」が流れた後、私の興味は表彰式の「君が代」に移ったのだが、こちらは当たり前かもしれないが本家エッケルトそのもので、妙な「安堵感」があったことを否定することはできない。西洋近代のスタンダードからすれば奇妙な和声付けであることは事実なのだが、長年みんな(海外の人々も含めて)聴き慣れていて、「これが君が代スタイルだ!」というイメージが定着しているのだろう。例えば、前回ブログにも書いたように雅楽や日本音楽の味付けをすることは考えられるし、最近SNSで話題に上がっていたのだが、長野冬季五輪の開会式の「君が代」がYouTubeに上がっているものが比較的そのイメージに近いようだ。

しかし、そういうものが開会式でなく表彰式の場に相応しい「高揚感」「多幸感」を醸し出せるかというと、それは微妙である。そこで誰しも感じる疑問は、音楽に「高揚感」のようなエトスを与える要因は何なのか?という問題だろう。

 

この君が代問題については、先般も記載したが「君が代以外の世界中のほとんどすべての国歌が長調か短調(全部知っているわけではないので何とも言えないが)」という事実があって、それが何を意味するかということが、本ブログのテーマである。まず、それはある程度は一種の「鹿鳴館思想」すなわち欧米化=近代化という発想を背景にしていることは認めざるを得ない。例えば最初の「君が代」であるフェントン作曲のものなどは、まさに「欧米的なもの」を具現していて、一種のコラールであると言える。しかしいまや世界はそういう単一のグローバリズムに飲み込まれるのではなく、民族主義によって再度分断されつつある。そのような状況でなぜ西洋近代音楽と決別した国歌が誕生しないのだろうか。

 

民族の音楽を表に出した国歌がなくはない。例えばネパール国歌などはなかなかいい線を行っている。短調の和声付けに乗って民族的な旋律が続き、最後が長調の和声付けというのがやや君が代(の逆)的だ。インド国歌も長調で和声付けした旋法メロディかと思うと、最後があいまいなところは民族音楽の様式が関連しているのだろうか。他ではイスラエル国歌、モンテネグロ国歌なども民族音楽の気配が感じられ有名らしい。しかしエッケルトの君が代のように「初めも終わりもあいまいなユニゾン」はやはり貴重な例外と言っていいと思う。

 

私の考えではそれは、国歌というものは基本的に「みんなで歌って盛り上がる」ということを目的としており、それに対して君が代は「一応みんなで歌えるように作られてはいるが、必ずしもみんなで盛り上がるための曲ではない」ということである。先に結論だけ言えば、君が代のエトスは「厳粛さ」「荘重さ」を醸し出すものであり、決して「盛り上がる」ものではない。

 

この件に関して、「国歌」というものの意義をきちんと考えることによって、「君が代」の特異性をあぶりだすことができると思うのだが、話が長くなるので以下次回にさせていただくことにする。