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天から降ってくる音楽

最近ブログの更新が滞っている。期待されてもいないだろうとは思うのだが、そうは言っても私のブログを見ていただける貴重な読者が数名おられるようなので、放置しては失礼にあたるだろう。実はこの6月に私の通っているチェロ教室の発表会が予定されており(この緊急事態でどうなるかわからないのだが)、そこで弾くためのチェロとピアノの小品を作っているために、どうもブログの方に意識が向かない状態である。

 

参考までにチェロ初心者の立場から言わせてもらうと、バッハの無伴奏などを弾いていると「この人はちゃんとチェロの奏法を考えているな~」ということがよくわかるものだが、大作曲家でもチェロについてあまり認識のなさそうな人(名前はあえて挙げないが)もある。一方でチェロの専門家の曲というと楽器はよく鳴るが音楽的にはまあまあというようなものもあり、そうなると結局自分で書いた方が、弾きやすくカッコいいものができて手っ取り早いかも、という意識になってしまうのだ。

 

私の作曲歴をご紹介すると、楽譜書きを始めたのは小学校5年生のときで、もちろん楽理も楽典も習ったことはなく、見よう見まねで初めて書いたのが「バイオリンソナタ」だった記憶があるからすさまじい(汗)。その後も演奏される見込みの全くない曲を書き続けてきたが、就職後は高度成長からバブル期とあってそんな時間の余裕もなくなり、いくつかの機会作品(委嘱を受けたものや自分の結婚式のための曲など)以外は不毛の時期となった。還暦を迎えるころにはやや時間の余裕もでき、編曲のご依頼や、また自作を演奏していただく機会も出てきて、結構な余生を送っていると感じている次第である。

 

それで、今回も何かでっち上げようと画策しているのだが、どういうわけか今回苦戦の連続である。私は通常、仲間内で盛り上がる用の現代曲でなく、不特定多数の方に聴いていただくための曲は、はた迷惑も考えて一応メロディと和声進行がある伝統の範囲内の作風で作っている(やや印象派風に筆が滑ったりすることもある)。現代曲の場合「アイデアと努力」があれば最終的に何かできないということはまずないのだが、伝統的な作品の場合見通しの利く楽式に、それなりのオリジナリティのあるメロディがないとどうも様にならない。曲全体の見通しのよさとメロディの進行の両方を満足させる方法は古典派時代に確立されているのだが、その通りに作るぐらいならクラシックやポップスの名曲を聴いた方がましに決まっている。

 

どうも最近歳のせいか(多分そうだろう)曲が「一気に湧いて出てくる」ということがなくなりつつあるような感覚があるのだが、古今の大作曲家もそういう悩みを持った人はいるのではないだろうか。早期に擱筆した作曲家として、儲けられるだけ儲けて贅沢三昧の暮らしを送ったロッシーニは別としても、デュパルクやシベリウスなどはいずれもその後も何か作曲を考えていたようなのだが、結局完成せずに終わっている。私の神であるラヴェルは晩年、脳の障害の影響で「頭の中には曲が鳴っているのに一音符も書けない」という悲痛な言葉を残している。よくは分からないのだが、これは一種の記憶力の減退と連動していて、一度にどれだけのフレーズを構築し記憶できるか、どれだけの脳細胞が同時に連携することができるか、というところが勝負を分けているような気がする

 

作曲という行為は、実際にやっていることは「個物」である音符なり和声なりフレーズなりを「組み合わせる」という一種の積み木細工であり、そのルールがある程度決まっている。しかしそのルール通りに個々の積み木を並べる一方で、全体の構想がなくては統一性のある曲にはならない。モーツァルトに「曲は(頭の中で)できています。あとは書くだけです」という名言があるが、程度の差はあれ作曲というのは大きな流れや落としどころが頭の中にあってはじめてできるものだろうと思う。ところが歳を取るにつれ、あまり長いフレーズが一気に出てこないようになってきた。数小節ぐらいのフレーズが頭に浮かんで、さて続きを書こうと思うとどうにも陳腐な展開しか出てこない。そういう時はいったん曲を忘れて、1か月後とか半年後とかに取り出してみると、頭がリセットされて続きが書けたりするものだが、今回のように時間制限があるとそれも難しい。

 

そういった経験から考えるのは単独の「気の利いたフレーズ」が決して名曲を保証しないということである。「気が利いているかどうか」はそれを全体の中において、きちんと曲の流れを捉えたフレーズであるかで決まる。すなわち「個物」の意味(それが「個物」であることを含めて)は、それが置かれた「場」で決まる、ということである。思いつくのはそういう「個物」すなわちフレーズであっても、そのフレーズがある「場」に置かれている状況を前提として発想できなければ曲にはならない。そういう発想というかひらめきは一種の「瞬発力」であって、それがないとなかなか曲を完成することが難しい、ということを最近感じるようになってきた。(これは文学でも絵画でも、あるいは商売の企画などでも同じだと思う。)

 

仏教、特に禅に「漸修頓悟」という言葉がある。修行者は人生について様々に悩み、その迷いを克服しようとして懸命に修行するが、それだけでは越えられない壁がある。その壁は何かのきっかけ(師のなんでもない一言とか、竹に石が当たる澄んだ音とか)によって破られ、修行者が直ちに真理を会得する(「頓悟」)というパターンがよく語られる。もちろん壁に跳ね返されて一生悟れない(私のような)人間もいるわけであるが、修行にせよ作曲にせよ、悩み続けて袋小路に陥ると、細部をいじり回す方に意識が向いて先の展開が見えないことがあるものだ。そこにある刺激があって、世界の見方が変わると「全体が一気に単純に見える」ような体験があるのではないだろうか。

 

これは「作曲はベターなものを選択する行為ではない」ということを意味する。例えばベートーヴェンが「運命交響曲」を作曲する過程で多数のスケッチを残していることはよく知られている。ベートーヴェンはこうしたスケッチの中から比較的よさそうなものを選んで組み合わせ、「改善」の積み重ねによって曲を作ったのだろうか? そうだとすればいかにも「努力の人ベートーヴェン」らしいエピソードだが、私はそういうプロセスは考えにくいと思う。「ジャジャジャジャーン」という基本的なアイデアに基づいてベートーヴェンがさまざまなフレーズを考えたことは間違いないが、しかしそういう断片の集積で曲ができるわけではない。特にこの曲のように「全体性」を強く感じるものはそうで、何かのきっかけで曲全体を「頓悟する」瞬間があることが必要だと思う。そういうブレークスルーがあれば後はプロの技術で曲を完成に持っていくことができる。そこには幾何学で言う「カタストロフィー」のような跳躍が存在することを感じざるを得ない。これこそがいわゆる「音楽が天から降ってくる」という現象ではないだろうか。もちろんその前提としては「漸修」すなわち曲の形について頭の中で様々な検討がなされていることが必要だ。

 

恥をさらすようだが、今回の私の曲も書き始めてすぐに行き詰り、何週間も放置した挙句、夜中に寝床の中で突然続きが頭に浮かんで、数分で曲の最後までできてしまった。やれ嬉しやと眠りについて翌朝見てみると、すでに書いた部分との繋ぎがまったくうまくいっていない。(寝床で思いついたアイデアなどというものは往々にしてそんなものである。)仕方がないので、今度はすでに書いた部分をまた別のアイデアで書き直すという悪戦苦闘の連続になっている。このあたりがヘボと名人の差なのだろうが、こういう苦労も多分ボケ防止のためには必要な「頭の体操」ではないかとひそかに思っている。それはいいとしても、ピアノ伴奏者に早く楽譜を渡して練習してもらう必要があるのだが…