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プーランクのヴァイオリン・ソナタ(對馬佳祐リサイタル)

「セミ・リタイア」しているはずなのに何ということなく忙しいが、たまには頭を空にして音楽を聴くことが有効である。時期遅れながら、以前もブログで取り上げた對馬佳祐さんが1月に開かれたヴァイオリンとピアノの演奏会の録音を入手したので、今回はその話題である。

 

對馬佳祐ヴァイオリンリサイタル~フランス音楽の夕べ

 

今回、テーマが私の心の故郷である「フランス音楽」ということで、本来なら東京であろうがどこだろうが飛んで行くのだが、残念ながらこのコロナ禍の時期録音で聞くしかないのは残念だ。プログラムも非常に魅力的で、サン=サーンスの「アンダルシア奇想曲」、フォーレの「アンダンテ」、メシアンの「主題と変奏」といったなかなか実演で聴けない作品が並んでいる。これらについても言いたいことは山ほどあるものの、やはりメインはプーランクとラヴェルのソナタで、これらはいずれも私が偏愛する作品なのだが、特に今回私が心を強く捉えられたのがプーランクである。

 

ご存じの通り、この曲はスペイン内戦に倒れた詩人ガルシア・ロルカの詩に触発された第二楽章を中心に作曲され、両端楽章はプーランクとしては異例の「非常に激しく(très violent)」という指示がある。私などは(多くの人がそうだと思うが)フルート・ソナタなど「軽妙・洒脱」の方から入ったのだが、このソナタはどちらかと言うともう一つの「謹厳・重厚」の面を示していると言われるのが普通だ。それは通常作曲の契機となった上記エピソードや作曲当時(1942年)の世情を反映していると考えられている。それはそれで正しい見方かもしれないが、ここはこの曲が最初に構想された第二楽章に対する対比の必要性からも両端楽章には荒々しい楽想が要求されていて、この第二楽章はそれだけの「重み」を持っていると言うべきだろう。

 

こういう「重み」を文章でどう表現するかは難しいところである。食レポで「美味しい」しか言わないレポーターのようにはなりたくないが、例えば「悲しみ」「絶望」というような具体的な感情ではもちろんなく、「憂愁」「倦怠」などのような漠然とした表現では物足りない。多分「苦しみを内に秘めて、告白するでもなく一人呟くような」という類の表現になるのだろうが、音楽と人間の情動の関係は決して一対一で結ばれるようなものではないので、表現すること自体が無理であるという気がする。

 

そこで真価が問われるのが演奏技術である。こういう曲を演奏するときに「悲しみ」「苦しみ」といったような感情に走るといわゆる「ロマンチック」な「力の入った」演奏になってしまうのだが、對馬さんの演奏はどんな場面でも力みがなく、半ば覚醒したような、内奥の魂の声のような音楽がずっと続く(どこまで行っても下手な食レポから脱出できないが…)。また両端楽章の「荒々しい」フレーズでも決して粗野な音にならず、厳しいながら「美しい」音楽が流れ、この人の演奏はまさにこういう音楽にぴったりの特質を持っているという気がする。

 

もちろん對馬さんの演奏は「ロマンチック」な曲でも素晴らしいのだが、完璧な技巧の持ち主なので必要以上に「頑張っている」感じがせず、ロマンチックな手垢のついた演奏を聴き慣れていると、こういう清冽な演奏は耳を洗われる印象がある。

 

ところで余談ながら、この曲は第二次大戦後に改訂されており、今回の演奏もこの改訂版によるものと思われる。主要な変更は第三楽章のいくつかのフレーズの省略で、それによって曲が引締まったものになっていると感じるのだが、この改訂版の第三楽章終結部のカタストローフの箇所で、ピアノの右手のヘ音記号が抜けているという重大なミスがある。誰にもわかりそうな凡ミスなのだが、「原典重視」という妙な理屈からこのパッセージをト音記号で演奏しているものが結構多い。そもそも不協和なフレーズなので知らずに聞けば納得する可能性もあるのだが、きちんと音を確認すればミスであることは明白だ。私はクラシックにおける原典重視という教条主義的主張にはかなり疑問を持っているのだが、これなどその典型ではないだろうか。

 

 

これもついでだが、對馬さんがショパンの「黒鍵練習曲」の右手を「ほとんどそのまま」ヴァイオリンで弾くという、開いた口が塞がらないような演奏(リンク)も是非お聞きいただきたい。まあ、ヴァイオリンに触ったことがなければその超絶技巧の凄まじさは理解できないとは思うが…