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ラモーの和声理論

 

最近「西洋音楽の正体」という本を読んだので、またその感想をブログに書きたいと思っているのだが、その同じ著者が昨年出した下記の本の感想を以前にFaceBookのタイムラインにアップしていたので、次回の記事を見ていただく準備として一応それもブログに転載しておくことにする。(FaceBookタイムラインの方をお読みいただいた方は、ほぼ同じ内容なのでスルーしてください。)

 

<最近読んだ本>

「西洋音楽理論にみるラモーの軌跡-数・科学・音楽をめぐる栄光と挫折」 伊藤友計著 音楽之友社

 

少しクラシックに詳しい方なら、ジャン=フィリップ・ラモーの名をご存じの方は多いだろう。ただし、大半は「バロック後期の大作曲家」という位置づけであり、しかもバッハやヘンデルのような同時代の大家から比べるとややマイナーな印象は免れない。しかし、音楽史や音楽学に興味のある人間には、ラモーと言えば「和声法」を確立した巨人であり、古典派以降ジャズやポップスに至る音楽作りの技術を確立した、作曲者の恩人である。

 

さて、この本はそのラモーの音楽理論の核心と言うべき「三和音」すなわち「ドミソ」という和音がどのようにして説明されたかの変遷が記述されている。音楽理論好きの方を前提に書くと、「ドミソ」の和音は基音(ド)に対して五度(属音ソ)と三度(中音ミ)が加わったものである。ラモーはまずピタゴラスが大昔に提唱しツァルリーノやデカルトが補充した「モノコルド(弦)の分割」からスタートする。五度は基音に対して3分割を意味し、三度は基音の5分割を意味する。しかし、このような演繹的、原理主義的な考え方に満足しないラモーは、カステルとソヴールによって提唱された「科学的」方法、すなわち「ドミソ」が倍音列(振動数が基音の2倍、3倍、4倍…という系列)に沿っているというアイデアに惹かれることになる。

 

しかしながら、この「倍音列」は「ドミソ」を説明する強力な方法であったが、短三和音「ラドミ」を説明することはできなかった。三和音の科学的方法にこだわるラモーはここで「下方倍音列」(振動数が基音の1/2、1/3、1/4…)というものを発明する。(本当にラモーの発明かは何とも言えないような気がするが。)これは上から「ド、ラ♭、ファ」という和音を示唆し、これが短三和音の物理的説明である、と言うことなのだが、まあツッコミどころ満載の理論であることは、少し和声法に興味を持てばすぐわかる(…と、思うのだが、これを19世紀にもなってエッティンゲンとリーマンという大理論家が取り上げ、現代主流になっている「ネオ・リーマン理論」の理論基礎として音大の教育で本格的に教えられていると言うのだから、全く世の中はどうなっているのか…)。

 

さすがにこの理論はダランベール、ベルヌーイ、オイラーといった赫々たる学者連から反論され、本人も問題があると思ったらしく、ラモーは、今度は現代でも和声法の教科書に書かれている「串団子方式」(私の命名だが)を発明する。つまり、三和音は結局オクターブを調整すれば、ドの上にミを乗せ、その上にソを乗せた串団子に帰着する、という理論である。このドとミが載った下に「ラ」をぶら下げれば短三和音の出来上がり、という訳である。このルールを拡張していけば「7の和音」「9の和音」などいくらでも作り放題だ。ここまでくると「科学的方法」もへったくれもないような気がするが、結局これがラモーの行き着いたところであり、また天下の音大で教えられている方法論でもある。(※「串団子方式」の理論的存在根拠は、そのようにして作られた和音が累積する音度(3度)の協和度のおかげで比較的協和的に聞こえる、ということ以外の何物でもない。四度の累積や五度の累積の場合も同様のことが言え、「累積和音特有の音響類型」が存在するということができる。)

 

こうして「科学的」を追求したラモーは晩年(もうハイドンは壮年でモーツァルトは青年、ベートーヴェンもやがて生まれるという時代である)になると「科学的」の看板を下ろし「すべては感覚のなせるわざ」という主張に移っていく。このようなラモーの考え方の変遷は実に面白いのだが、どうも私はへそ曲がりなせいか、このようにいろいろな理論構築に悩む必然性がさっぱり理解できない。

 

拙著にも記載したが、三和音が重視されるのはそれが倍音列に沿って構築されているからではなく、各々の音の関係がすべて比較的単純な関係(協和音)で出来ているからにすぎない、というのが私の考え方である。これは倍音列がどうのこうのというよりはるかに「オッカムの剃刀」であって、短三和音の由来に悩むような必要は全くない。そうでなければ(本書にも記述されている通り)第7倍音を排除しなければならない説明がつかない(ついでながら、第7倍音から属七の和音が直接帰結されたりはしない)。

 

この本を読んでもつくづく感じるのは、「原理主義」が暴走するとどうなるかということの危険性である。ピタゴラスも下方倍音列も、理論を現実に無理やり当てはめようとした結果落ち込んだ罠のようなものであり、逆に20世紀に一世を風靡した「音列技法」は「理論は聞けば認識できる」という確信すなわち逆原理主義の所産である。私は最近ピタゴラスに異を唱えたギリシャの実証主義理論家であるアリストクセノスの音楽理論に非常に親近感を抱くのだが、世の中が主義主張でギスギスする今日この頃、常に頭を柔軟にして問題をさまざまな方向から考えてみることの重要性を改めて感じる。

 

※(ブログ版への後記)

リーマンの和声について否定的なコメントを記載したが、これと上記の「ネオ・リーマン理論」との関係はやや微妙であるように思われる、リーマンの理論については長三和音と短三和音が「上下倍音列」を通じて裏返しの関係にあり、それが長短三和音の基本原理であるというアイデアであって、これには根拠がないことを上記で述べたが、リーマンには別に長音階とフリギア旋法の対称性という観点から二元論を展開している面があるらしく、もし倍音列を三和音の構成原理として持ち出すのでなければ(つまり問題を旋法性に限局するのであれば)これはなかなか面白い問題提起である。ネオ・リーマン理論でよく持ち出される「五度・短三度・長三度」ラインの図を見れば、それが一見和声の構築音の対称性を示しているように見えるが、実は長短の音階が有する「全音と半音の位置」の対称性を示していることが分かるはずである。これは実は私の三和音のとらえ方にむしろ近いと思うのだが、これに関しては別に稿を改めて論じたい。