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音律の起源(2)

前回、何かを期待させるような思わせぶりでブログを終わったのだが、残念ながら実は明確な解答があるわけではない。しかし一応考えられる道筋を辿って結論に至りたいので、下記後半部分をお読みいただければ幸いである。

 

 

前回出てきた「より狭い音程」の(35乗:28乗)ですが、最大の謎はこの得体のしれない奇怪な数字で表される音程が「半音」すなわち「全音の半分」と考えられていることです。たしかに上記の数字と「全音の半分(√8:3)」を比べると差は1割ほど(約12セント)なので、近いと言えないことはありません。しかし鋭敏な耳をもってすればもちろん違いは分かるはずですので、なぜこの二つの数値が同一視されるのかは謎というほかはないでしょう。もし古代の楽譜や文明に汚染されていない民族音楽が発見されて、その中で連続した二つの半音が後で全音と同じであることが分かるような様式があれば、それによって「半音」という実体が古代から存在したことが分かると思うのですが、それが明確に文献上出てくるのはギリシャ時代からだと思いますので、残念ながらこのようなプロセスの証明にはなりません。

 

とは言え、上記のようにいろいろなパターンのテトラコルドが作り出される中で、実質的に「同じ音高」とみなされる音が決定されていけば、「半音=全音の半分」というのが一番すっきりした体系であるということは自然と了解されるようになるのではないか、という気がします。例えば先に出てきた三度という音程ですが、これが(五度の積み重ねの結果出てきたのではなく)個別の協和度故に用いられていたと仮定した場合、長三度も短三度もどちらもが用いられるような状況(例えば「ミ--シ」「ミ-ド♯-シ(=--ラ)」「ミ-ド♮-シ」が併存するような状況)では、それらの差が半音であることが次第に理解されるようになってきたのではと思います。こうして全音の半分が半音であるという理解が浸透した状況では、オクターブのディアトニックな音階が12個の半音に分解されることは必然の結果であるということができます。

 

ついでに言うと、こういう「半音は全音の半分」という発想がピタゴラス的五度累積から直ちに出てくるとは思えません。ピタゴラスでは半音の関係は五度を6個積み重ねた結果出てくるものなので、それの全音との関係はそれ自体では自明ではありません。半音と全音の関係が判明するのは五度を11回累積した結果の音程がたまたまオクターブを調整したスタートの音に近く、それを同一視してオクターブにすべての12個の音を並べたら、それぞれの間がいわゆる「半音」で、2個並べれば全音に近くなった、という過程を経てからです(結果的にはこの「半音」は先の「得体のしれない数字」に一致します)。これは直感的な半音の理解とは大幅な乖離があり、またそれでなくでも11回の五度累積で到達した音に「ピタゴラス・コンマ」というお釣りが生じることを考えても、論理的な帰結とは言い難いと思います。(なお、こういう考え方は「平均律」がそもそも初めに存在したというような発想とは無縁のものです。)

 

もっとも、先にリラの調弦が五度で行われていただろうという話から考えても、ピタゴラスが五度を累積して12半音からなる体系を作った(中国では「三分損益」が成立した)という話は、首尾一貫した体系を作りたいという高度な思弁の存在する高度な文明においては、ピタゴラスが最初かどうかは分かりませんが自然に発生することは無理ではないと思います。特に、こういう音楽の体系を整理したいというような思想が発生する文明段階においては「音階」という特殊な概念が登場します。「音階」は「オクターブの同一性」という概念を前提にして成立するもので、オクターブの差を捨象した「音名」という概念を使って、音楽に使用される音のリストを作成するものです(通常音の高さに順に並べることになり、音「階」という用語はそれを表しています)。これは「旋律の作り方」を体系化した「旋法」とは異なり単なるリストですので、実際の旋律の作り方を示唆することはありませんが、ギリシャにおいても(多分中国においても)既にこの両者がある程度混同され、それ故「十二の半音からなる音階」が一般的な支持を得た、ということができると思います。そういう意味では「ピタゴラス(?)が十二音律を作った」という言明もあながち間違いではない、ということもできます。

 

全音、半音からなる体系はこのようにしてできたと考えるのですが、実際に半音と全音をオクターブ内に「全全半全全全半」と整列させようとすると、それぞれの音程が全音(8:9)や半音(√8:3、あるいは四度と長三度の差である15:16など)ではもちろん合計が合いません。それで、長調で使用される主要和音だけでも単純な数比になるような「純正律」(当然すべての半音が同一にはなりません)や、バロック期にはこれをさらに複雑に調整した各種の音律が登場しました。しかし現代では半音はすべてオクターブを(212乗根)という同じ幅の音程で等分した「平均律」が行われており、ピアノなどはこれで調律するのが基本です。これに関する煩瑣な議論があり、その中には傾聴に値するものももちろんあるのですが、実際問題としてバッハの平均律クラヴィーア曲集あたり以降は原則として平均律で演奏されることを前提としており、また平均律には転調が自由自在にできるという代えがたいメリットがあるので、平均律が使用されるのもやむを得ないということができるでしょう。(バッハの曲集はヴェルクマイスターで演奏すべし等の意見もありますが、そうする実質的メリットはあまりないように思われます。)

 

以上のような事情から特に、平均律に関連して、「響きが美しくない」というもっともな苦情があることは事実です。しかしピタゴラスにも純正律にも響きの「悪い」部分はあるのであって、響きの美しさと便利さをはかりにかけること自体が無理な相談です。そもそも人間の認知の構造として「オクターブがディアトニックな構造によって分割でき、五度や四度などの協和音がある程度協和音らしく聞こえる」という事実があります。私はこれを「奇跡のような偶然」であると考えており(何か科学的事情があるのかとも思うのですが、現状偶然と考えるしかないようです)、それは「人間は物事を単純に解釈できるように認知する傾向がある」ということだと想像しています。

 

テレビのニュースを見ていますと、子供向けのドラマのように善玉悪玉を明確にした勧善懲悪的報道がなされていることがよくあります。多分悪玉側にもいろいろな事情があり、実際に本人の立場になってみれば同情すべきことも多々あるのだろうという気がしますが、細かい点は取りあえず目をつぶって事態の構造を大枠でつかむことこそが重要ということも、また現実であるということができるでしょう。「平均律」もまさにそのようなものです。平均律が数学の力によって正確に算定されるのは17世紀のステヴィン(あるいは中国ではその少し前)からですが、いつ頃とは言えませんが上記のようにディアトニックな音階が成立し「半音が全音の半分である」という意識が存在する段階では、すでに人間の頭の中には(無理を承知で)オクターブに12の(等質な)半音が存在するという構造が成立しており、それをごり押しに数学の力で明るみに曝したのが平均律というものであるということができます。

 

このように考えてくると、なぜこの世の中に半音をさらに分割した四分音、また三分音・五分音などが一般的に使われないのか、ということの理由がよく分かります。四分音は古代ギリシャの音楽理論にも登場し、またこれら特殊音程を使う民族音楽の存在がしばしば語られることがあり、それが音楽の多様性を示すものであるように喧伝されることがよくあります。私にはそれらを聴き込んだわけでもなく、それらの価値を十分に理解できる資格がありませんが、それらの文化を育んだ民族の国歌がそういう音律を使用していないことを考えると、やはりそれらには「一定の認識上の困難がある」ということなのだと思います。それらの特殊な音律は間違いなく音楽の世界を豊かにすることに貢献していますが、それが一般的にならないのは西洋文明の侵略で圧迫された結果というわけではありません。非常に認識しやすい五度や四度からスタートして、必然的に成立する全音と半音の体系は、最も普遍的な構造として音楽の基礎を作っているものであり、これから先もその地位が揺らぐことはないでしょう。

 

以上、私の考える音律生成の経緯を述べてきましたが、私には実験により検証する手段も大量の資料を読み込む金も時間もありませんので、これは何ら実証性のない頭の中だけで考えたものであることをお断わりしておきます。もちろん素人が思いつくようなことは、学者はとっくに考えていると思うので、この議論の中に落とし穴がある可能性は否定せず、率直なご批判をいただきたいと思います。しかし、原理主義に陥ることを避ければこのような結論にしかならないと思うのですが、いかがでしょうか。

 

 

なお、拙著にも簡略ですが、同趣旨の説明がありますので、他の問題と合わせてご参照いただければ幸いです。