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絶対音感(2)

前回、絶対音感が誰にでも潜在する能力らしいという話をご紹介したが、ではそれがどのように形成され、どのように作用するのかという話につき、自分の考察を「その2」で記載することにしてすでに原稿を準備していた。ところが数日前に図書館に立ち寄った際にふと書棚に「絶対音感」という文句の入ったタイトルの書籍を見つけ、読んでみたところこれがまさに「その2」に予定していた内容の8割ぐらいを代弁してくれているものであり、予定を変更してこの書籍についてのご紹介を先行させることにした。

 

★「絶対音感神話」-科学で解き明かすほんとうの姿 宮崎謙一著 同人選書刊

 

著者は認知心理学者で、音楽の認知についての研究を中心としている。この本の内容をごく端的に言えば、単音を聴いただけで絶対音高を(固定ド唱法で)言えるような能力は、音楽的な聴取とは関係がないどころか、むしろそれを阻害するものである、ということである。これは拙著に簡単に記載した結論に近いのだが、私の論考が頭の中だけの理屈であるのに対し、さすがにプロの書く本は実験の過程を詳細に記述しており、迫力が桁違いである。

※後述するが、本書の実験方法は先に取り上げたダニエル・レヴィティンの本にあった「同じ歌を何度か歌わせて、それが同じ高さで開始される」というような、議論の余地のある手法ではなく、ある程度の厳密さを伴い統計的処理も可能なように配慮されている。

 

こういう本が登場しなければならなかった事情がある。もちろん本書にも書かれているように絶対音感は昔から稀有な才能として、それを保有することが優秀な音楽家の条件と考えられてきた事実もあった。しかし日本においては江口寿子氏の主導する絶対音感教育が勢力を持ち、90年代の終わりに「絶対音感」(最相葉月著)という本が出てこのような教育方法が一般に大きくアピールされることになった。「絶対音感神話」には絶対音感を持っているという音楽学生が海外と比べて日本では大きな比率を占めていることが記載されており、本書の著者の危機感はそれに由来するものである。私自身「絶対音感」が出版されたときにはそこに記載されている絶対音感保有者の能力に驚嘆しながら大きな違和感を抱いたものだが、その後「絶対音感神話」のような本が出たことには(書名は見た記憶もあるが)全く気付かず、もっと早く読んでいればという思いがある。

 

内容は読んでいただいたほうが早いが、この本の面白い点はその実験手法にある。色認識に「ストループ効果」というのがあり、これはさまざまな色のインクでさまざまな色の名前を印刷し、例えば赤のインクで「緑」という字を印刷したものを読ませるときに、実際のインクの色(赤)を言わせる方が色の名前(緑)を言わせるより時間がかかる、という現象を指す。これは「文字を読む」という動作の方が「色をカテゴリー化する」という作業より自動化されており、判断を要しないからである。

 

同じことが音にも言える。「音楽家のほうが歌えない歌」というのがあり、例えば「ドレミ」という音高のメロディに「シソファ」などという歌詞を付けて歌うのは非常に気持ち悪いものである。著者の実験は被験者を絶対音感を持つ群と持たない群に分け、「ド」の音を「ミ」という発音で聴かせたり、「ミ」という発音で「ド」の音を発声させたりするものである。そうすると絶対音感を持っている者は、前者の場合発音にかかわらず正確に音高を示すことができるのに対し、後者(「逆ストループ効果」と呼ばれる)の場合このような作業に大きな抵抗が見られる。すなわち、絶対音感は「持っていると便利なモノ」であるというだけでなく、「音の認識全般に影響を及ぼすモノ」であることが分かる。

 

著者はさらに本書の後半部分で、絶対音感が(相対)音程の認識に及ぼす影響を実験している。この実験では様々な音程を異なった高さで聴かせて、その結果を分析しているのだが、これを見ると絶対音感を持たない人間が音程をそれ自体の「広さ」の感覚でとらえているのに対し、絶対音感を持つ人間は二つの音の絶対音高を一旦把握したうえで、その間隔を「計算する」という実に余計な手間をかけている。被験者は音楽科の学生なので、正直そんな迂遠なことをやっていること自体信じられないのだが、誰しも分かる通り、メロディにせよ和音にせよ音程によって形作られるものなので、こんな作業の連続で音楽が把握できること自体が不思議なぐらいである。

 

また、この結果絶対音感を持つ者は、音楽につきものの「移調」「転調」という作業に対してうまく順応できないという結果が示されている。私がこの本を読む前に考えていたのは、絶対音感を所有することが音楽を成り立たせている音の構造の聴取にほとんどプラスにならず、場合によるとそれを妨げる可能性もありえなくはないという程度だったのだが、ここまで絶対音感のマイナス面が示されるとそんな話では済まないのかもしれない。

 

もう一つ印象的だったのは、絶対音感を習得する人間は「ピアノの白鍵」の音程をまず正確に把握できることからスタートするという事実である。もちろんそれは教育プログラムがそのようにできているからに他ならない。その結果、彼らは臨時記号が付いた音と付かない音に対して感受性が異なる、という結果になっている。これはバッハ以来の西洋音楽のルールである平均律という考え方に逆行するものである。教育というものは「何かが身に付く」ことには熱心だが、それを身に付けることにより失われるものが存在することには意外と目を向けないものであることを、肝に銘じるべきだろうという気がする。

 

この本が出版された当時ではまだこのような学説には抵抗感が強かったという記述があるが、現在ではどうなのだろうか。私も10年前から自著(の原稿)に同じようなことを書き綴っていたのだが、冷静に考えると素人が考えても分かることは実は学界では当たり前の話で、素人が自分の創見のように主張するのは片腹痛いということになるのだろう。それでもそういう事実が一般に広まらないのは、やはりそれが音感教育という商売に対する営業妨害と認識されているからなのではないだろうか。

 

この本にはほかにも「絶対音感によって作曲する」という作曲家の伝説についての話が記載されているのが実に興味深い。「全聾だが絶対音感があるので作曲できる」という、例のゴーストライター事件の主の談話は聞いただけでも怪しいが、相手がモーツァルトともなるとやはり「天才というのはそういうものか」と思ってしまうのが一般人の心理である。この本には、モーツァルトがアレグリの「ミゼレーレ」を一度聞いただけで写譜したという伝説の内幕が明かされている。詳細は本書をお読みいただきたいが、さすがに伝説内のモーツァルトのように一度聞いただけで記憶しホテルへ帰って写譜するような芸当は無理にしても、この曲は同じフレーズの繰り返しでかつ単純な和声的構造の曲なので、音大の学生であれば何度か聞けば写譜ぐらいできなければいけないと思う。かつそれは本書に記載されているように「モーツァルトが絶対音感を持っていたからではない」ことは明白だ。絶対音感が身に付くかどうかはある程度遺伝的な素養もある模様であるが、そういう希少性ゆえにそれが貴重であると考えることは、あまり意味がないということを認識すべきだろう。

 

ところで、このブログを書くきっかけになった「音が全音高く聞こえる」という私の悩みなのだが、本書を見るとスビャトスラフ・リヒテルがやはり同じ症状に悩んでいたことや、ほかの音楽家でも老年になって音が半音ないし全音高く聞こえるという症状が記載されており、どうも私だけの悩みではないようだ。とするとやはり原因は「耳の老化」なのだろうか。そうすると、私にも「絶対音感まがい」が存在するということは事実と思われるが、それで相対音感が制約されているという意識は現状あまりない。だから本書の「絶対音感のデメリット」も若干割引して考えたいという気持ちはあるのだが、絶対音感を持っている音楽家たちの意見を聞いてみたいものだ。

 

さて、以上ご紹介してきた本の内容をお読みいただければ、前回準備していた私のブログの原稿はボツにしてもほとんど差し支えないのだが、そうは言っても若干蛇足を付け加えたい思いもあるので、本ブログは次回の(3)に続けることにしたい。長文かつ駄文で恐縮だが、お見捨てなきようまた次回お読みいただければ幸いである。