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猫と古典派(2)

 

(1)で取り上げたネオテニーという現象だが、要は「複雑になった話の枝葉を切り捨て、単純明快にして逆にいろいろな状況に対応できるようにする」ということと考えれば、世の中いろいろな場面で現実に存在する話ではないだろうか。世間でよく「筋を通せ」とか言われることの大半は単なるフォーマリズムであって、実際にはそんなものはなくても問題ないものだ。ところが、そういう「筋を通す」ような形式は一見立派であり、なかなか反論しにくいようにできているところが曲者である。

 

そこでいよいよ本題の「古典派」の話に入るのだが、古典派の音楽の特徴はどういう点にあるのだろうか。ベートーヴェンの第九交響曲のような完成されたものではなく、古典派が成立したころの、一束百円で山ほどある前期古典派(マンハイム楽派とか)の作品は、「要素を単純化する」という一事に徹している、と言うことができる(詳しくは、拙著第4章の記事を参照いただきたい)。バロック芸術にまだ存在した対位法的配慮(「通奏低音」とか)がかなりの部分捨て去られ、その代わりにフレーズごとに単純な特性(和声や旋律形など)が配置されその対比で音楽が構成されるようになる。(こういう単純化は楽器の編成の定型化などにも見ることができる。)

 

つまり、古典派の作曲家たちは、例えば対位法上の音の配置を個別に調整するような複雑な構造を捨て、メロディと「コード進行」のみの構造を選択したのである。「コード進行」のありかたは既にバロック初期に確立されているのだが、それを対位法の線的な要求に適合させるのでなく、それだけを前面に出すという「幼形」のままの音楽がここで成立している。バッハのフーガは異論の余地なく素晴らしいものであるに違いないが、その方向でさらに立派なものを創造することは難しい。バッハの芸術は完成していて、それ以上足すことも引くこともできないどん詰まりのもの、いわゆる徹底したハイカルチャーである。それに対して新たに成立した古典派の芸術は、対位法の複雑な要求に従わない代わりに、単純なフレーズの交代で曲を構成することによってより認識しやすい構造を作り上げるような、ポップカルチャーであると言うことができる。

 

このように単純化が進み枝葉が切り落とされることによって、より大局的な構築と認識ができるようになる。結果的にはそれが、構造の階層化によって大規模な作品の構造を作ることを可能にし、最終的には新たなハイカルチャーの創造につながるのだが、そのようなダイナミックな動きが一種の「破壊」「退行」であるネオテニーを契機としていることに注目すべきであると思われる。(対位法的配慮を細部まで徹底することの放棄は一種の「鈍感さ」の許容、あるいは歓迎なのだが、私はこれを「鈍感力」の効用と呼んでいる。鈍感力は「精神の怠惰」を表すのではなく「認知形態の変換」を表すものであるのだが、これについては稿を改めて論じたい。)

 

このような変化は古典派の成立の時のみに起こったわけではない。ルネサンス音楽の成立(デュファイなど)や、バロック音楽の成立(モンテヴェルディなど)の時代にも同様のネオテニー的な現象が起こっているのだが、特に私がそれを感じるのは「中世西洋音楽の成立」に関してである。そのためには西洋以外の音楽について考えることが必要になる。

 

一般的に中世西洋音楽の成立を画期するのは「ポリフォニー(複音楽)の成立」であると言われている(その初期のものは「オルガヌム」と呼ばれる)。和音を演奏することは世界の民族音楽にいくらでもあるごく普通の現象である。たとえ単一の楽器あるいは単声部の歌で和音を演奏しなくても、そこで使用される音は「協和度」によって構造化されており、それは事実上和音の響きを認識している(「ハモる」ことを意識している)ことに他ならない。それではこのような和音を使った(意識した)音楽と「複音楽」はどういう違いがあるのだろうか。

 

各地の民族音楽を聴くと私には非常に「癒される」イメージがあるのだが、それは一つの曲内部での様式の変化が非常に少ないからであって、そのことによって「安定感」「安心感」が存在することがポイントである。詳しい説明をする余裕がないが、それはこれらの音楽が「旋法の枠組み」を厳守していることを意味する。多くの民族音楽では旋律の形に決まったパターンがあり(それを「旋法」と言うことができる)、先方にはそれを構造化している複数の音(=「旋法の枠組み」)が存在する。それは一つの曲の中で比較的厳密に守られ、あらゆる音はその枠組みの中で様々に構築される。民族音楽には中国伝来の雅楽とか、インドネシアのガムランとか、非常に複雑に構築された音楽が存在するが、いずれの中でもこのような枠組みが守られ(まれに「転旋法」したりもするが)、逆にそれ故に安心して高度な構築が行えるための基盤となっていると言える。

 

ところが、西洋中世のオルガヌムにおいては、「枠組み」自体は存在するものの、音の関係は枠組みによってマクロに仕切られるよりも、個別の音同志の協和、不協和の関係が優先するようになる。すなわち、ここでは折角曲の統一を認識できる手段として作り上げられた旋法の枠組が背後に退き、個別の和音の特性というある意味「原始的」なものが前面に出てきたということができるのだが、私にはこれが一種のネオテニー的な動きであると感じられる。

 

安定した旋法の枠組みの上に華やかな構造を構築するより、一つ一つの音に対してそれにふさわしい音を地道に対応させていくオルガヌムの手法はある意味原始的なものであるが、それが西洋において出てきたのは、西洋文化の「後進性」がなせる業なのではないかという気がする。しかしながら、あらゆる文化において真の革新性はそういうところから出てくることもまた真実なのだろう。

 

猫の話から始まって文化論まで来てしまったが、こういうネオテニー的な発想は混迷している事態を打開する方法として極めて一般的なものであるという気がする。既に各種機能のために一部の隙もなく関係性が構築され、これ以上どうしようもないという状態になった構造が一旦解体され、その関係性の対象である分節の存在にまで遡って見直される。このようにネオテニーを起こした構造体は、各部分が白紙に近い柔軟性、融通性を持ち、別種の機能のために新たに異種の関係性を樹立することが可能になる。

 

例えば前漢を作った高祖劉邦が既存の複雑な法体系を破壊して「法三章」のみにしたような政策は、典型的なネオテニーであるということができる。よく政府が政策の見直しを要求されたときに「ゼロベースで検討する」という発言を行うことがあるが、本当に「ゼロベース」まで遡って検討しているか非常に疑問を感ずることが多いのが現実だ。

 

あるいは、古今の大発見や大発明はネオテニーの結果であるということも言える。例えば天動説という極めて常識的な(それ故に一見安定的な)基盤の上に、それを成立させるべく従円とか周転円とか、複雑極まりない理論が構築されるが、それらは地動説というオッカムの剃刀によって一気にゼロベースで見直されることになる。学問というものはもちろん、重箱の隅をつつくことも重要な作業なのであって軽視はできないのだが、その一方でノーベル賞を取るような業績は多くの場合学問のネオテニーの結果であるということが言えるのではなかろうか。

 

猫は幼形を維持して「かわいく」なったことの結果として、人間との共生という環境にニッチを見出し、人間との間に新たな関係性を構築することができた。こういうネオテニーの効用について、一見幼形を維持したまま成熟しているかに見える「チコちゃん」に、ゼロベースで聞いてみたいものだ。