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猫と古典派(1)

タイトルから、モーツァルトやベートーヴェンがペットを飼っていたとか猫に関係する曲を書いたとか、そういうテーマを予想されるかもしれないが、そういう話は当ブログでは取り上げない。

 

本題に入る前に若干寄り道をするが、実は私は犬も好きだがペットについては基本的に猫派である。ネットを見ていたら作曲家は比較的猫派が多いとのことで(根拠は不明)、何か共通点があるとすれば光栄だ。しかしながら、犬が人間との従属関係(あるいは非従属)をはっきり認識しているのと対照的に、猫をペットとして見ているのは人間の側で、猫の方が人間をどう見ているのかはどうも測りかねる感じがある。「吾輩は猫である」が誕生するゆえんだ。

 

人間の傍にいながらなんとなく距離感があるからかもしれないが、私のような猫好きからすると、いろいろな話の中で猫はいつも虐待されている印象がある。例えば、動物のサークル(干支とか、仏の涅槃の際に集まった動物とか)の中に入れてもらえないことに始まり、火中の栗を拾う猫とか、トムとジェリーとか、本人のせいかもしれないがいつも最終的には犠牲者である。音楽でも「猫踏んじゃった」というのがあるが、踏まれるのがなぜ猫でないといけないのか疑問だ。

 

さらに、そもそも猫は別に殺してもいいと思われているふしがある。西洋では猫に九つの命があると言われるように、しぶとく生きながらえるイメージである。数学に「アーノルドの猫写像」というのがあり、猫の絵をどんどん切り刻み分解していって原型を全く失っても、結局は元の猫の形に戻るというカオス写像なのだが、なぜここに猫が出てこないといけないのかが問題である。ポーの「黒猫」の話も生き埋めになっても生き延びる猫のしぶとさを強調する話である。

 

したがって、猫を平気で殺す話も多い。「猫丸」という太刀には猫が斬られた逸話があるし、「シュレーディンガーの猫」だって、別に危険にさらされるのが猫である必要はないと思われる(「パブロフの犬」に非難が集中するのとはえらい違いだ)。最悪は禅の公案「南泉斬猫」(碧巌録)である。南泉和尚は子猫に刀を突き付け、弟子たちに向かって「何か気の利いたことを言ってみろ」と言うのだが、弟子に応えられるものはいない。そのため和尚はついに猫を斬ってしまう。これには後日談やいろいろな解釈があるのだが、いずれにしても「猫が死んでも弟子が救われればいいや」という非常に「殺生な」理屈であることに違いはない。(そこまでやるならば、刀を猫でなく弟子か自分に突きつければいいではないか。禅を極めていないヤツには分からん、と言われればそれまでであるが。)

 

このように、猫には世間にマイナスイメージもあるものの、それでもどうも憎めないところがあるのが不思議なところだ。そこで(やっと)本題だが、年末に「チコちゃん」をボケーっと見ていたら、「猫はなぜかわいいのか」という問題を取り上げていた。その結論は、猫が人間にかわいいと思わせるような「ベビーシェマ」(幼児体型)に進化した、というものだった。それは「顔が丸っこく、体が柔らかい」「目が丸くて大きく、顔の比較的下についている」「足が短い」その他、動物の幼生に見られる特徴を保持したまま成熟していることを意味する。その意味は「子供をかわいがる動物の本能を利用することによって、危害を受けないように進化した」ということなのだが、特に人間がペットとする動物については一種の「人為選択」が働いたと考えることができるだろう。

 

ところで、こういう幼形のまま成熟するような現象は「ネオテニー」(neo「幼形」がteny「続く」)と呼ばれる。これは19世紀にユリウス・コルマンという学者がアホロトルというイモリについて言い出したものであるが、その後人間の進化がやはりネオテニーの結果であるという学説が出てきて、その関連で有名になっている。人間に関して言えば、子供のころ聞いた寓話に、神様が創造した動物それぞれに生きるすべを与えるために、力が強いとか足が速いとか、いろいろな利点を与えたが、最後に人間の番になった時に与えるものがなく、人間には「考える力」だけを与えたという話がある。つまり、人間はほかの動物が成長して身に着けるいろいろな特質をまだ身に着けない幼形の状態のままで成熟する、というわけである。

 

で、なぜ猫にネオテニーが見られるのかというと、それは結局人間の都合、すなわちその方が扱いやすいということなのだろうと思う(犬などほかのペットや家畜も同様にネオテニーの結果であるという話がある)が、それはネオテニーという現象が一種の発育不全のような、比較的発現しやすい特性であって、それ故「ペット」などという比較的短期間の進化において選択・適応という過程を遂げるのだ、ということが言えるのではないだろうか。

 

いずれにせよ、このネオテニーという現象は、各生物本来の特徴が成熟しても発現しないということなので、生物の適応力を十分に発揮できない、すなわち「弱者」の状態と言えるのだが、それが「環境変化」(原人においては密林の乾燥化など?)とか「人間の都合」とか、条件によっては弱みではなく強みになる。特に特定の環境に必要以上に適応した体制は「進化の袋小路」となり、少しの環境変化に対しても適応できなくなる可能性がある。一旦進化の流れを清算してネオテニーを起こすと、うまくいけば新たな環境の中にニッチを見出して、種として生き残る可能性があるのだが、これが生物にとっての「多様性」の必要を示していると言うことができる。

 

私も、孫の顔を見るとついつい目じりが下がってしまうように、ベビーシェマにしてやられている口だが、改めて自分を振り返ってみると、古稀前にもなってこんな大人げないブログを綴っているところなどは、ネオテニー人間の典型であるかもしれない。しかし、サラリーマン生活に過度に適応した人間が退職後生き甲斐を見失ってしまうような話を聞くにつけ、ネオテニー的要素を残したまま老後を迎えることのメリットをそれなりに感じることは幸福であるということができるかもしれない。

 

さて、まだ「古典派」がかけらも出てこないので、いい加減しびれの切れている向きもあると思われる。実はこのブログはここまでが前置きで(私のブログのいつものパターンである)、ここからが本来の論点であるのだが、長くなるので話は次回にしたい。