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楽譜中毒症(2)

「楽譜中毒症」が個人的な特異性でなく、そういう人間が一定数存在することは、それに対する確固たる理由があることを意味している。もちろん私も音楽を聴いて体が顫えるような感動を味わったことが何度となくある。またそれ故に音楽ファンをもって任じているのだが、それと並行して楽譜そのものに対する特殊な嗜好(フェティシズムのようなもの)があって、その比重は決して音楽そのものに対する重みと変わらない。例えば、私も楽器を練習する際に楽譜にいろいろ書き込みを行ったりすることがあるが、自分で「演奏」しない、例えばオーケストラ・スコアなどを書き込みで汚すことは、誤植の修正以外ありえないことだ。指揮者であれば書き込みもありだと思うが、私にとってそれらは一種の「美術品」なので、それに書き込みを行うことは美術品を冒涜する以外の何物でもないのである。

 

楽譜中毒症というのは、まさにこのように楽譜を美術作品として眺めることが性となった状態である。そういう性格はこのブログに興味を持って読んでいただける方はある程度ご理解いただけるかと思うが、私は幼少期にはかなり「変な子」であり、逆にユニークな趣味であることを一種の自己のアイデンティティとしていたこともある。自分の話ばかりで恐縮だが、私の楽譜鑑賞(崇拝)はベートーヴェンから始まり、「春の祭典」「グレの歌」「トゥランガリラ交響曲」といった複雑なものにどんどん傾斜するようになり、その過程では既成の楽譜の複雑さが物足りず、自分で複雑怪奇な楽譜を作るような、典型的な中二病症状を呈することになった。そのため後年ソラブジとかフィニッシーとかの複雑な楽譜に触れたときには、何とも言えず懐かしい感覚を覚えたものである。

 

その後歳を経てやや人間に落ち着きが出てきたのか、さすがに複雑一辺倒からは脱却し、モーツァルトやフォーレの楽譜に現れる、音符とそこから湧いてくる音の端正な姿に興味が移り、今に至っている。このあたり、古稀近くなっていまだ稚気の抜けない私にも、少しは成長というものがあったのかもしれない(?)。

 

そもそも、楽譜などというものは一種の「道具」であると考えられているものと思われる。音楽を記録し、伝達するためのもの、言語に対する「文字」というようなものであるというイメージが強いだろう。そうして、「文字」は言語という本体に従属するものとしか考えられないのが普通だ。しかし「文字」は道具であるだけでなく、「書道」としてそれ自身で造形芸術の対象となっている。

 

「楽譜」も同様である。曲を記録するため、あるいはそれを他人に伝え他人がそれを使って演奏する道具であることは間違いないが、それにとどまらず楽譜には「個人の様式」「時代の様式」が刻印されている。すなわち「楽譜」は、自分が作った曲を形に残すため、あるいは他人がそれを使って演奏するための「道具」であるだけではなく、それ自体を立派な造形作品として見ることができるというのが、私の考えである。(念のためだが、バッハの自筆譜が美しいとかベートーヴェンの自筆譜に迫力があるとかいうような話とは、まったく別次元の話である。)

 

もっとも、楽譜は音楽という「音」を記録するのが目的であって、その結果が造形における美を作り出すかという点に疑問を抱く向きもあると思われる。そもそも楽譜は「音」を指示するための記号であって、楽譜中毒症は一種の「記号愛」「記号崇拝」である。記号崇拝はそれが指示するモノ(例えばキリスト教)への崇拝が、記号(十字架)自体への特別な関心に変化したものであるということができる。私が楽譜と並んで昔から興味を持っているものに「地図」があるのだが、これもやはり一種の記号の体系であるということができる。

 

考えてみれば「文字」も典型的な記号であるのだが、文字はほとんど「発音」「意味」と一体化しているので、文字の連鎖を認識することは「テキスト」を認識することであり、発音や意味が認識されれば文字自体に興味が戻ることはあり得ない。その例外が先ほどの「書道」なのだが、書道自体は純粋に造形芸術の分野であって、テキストと何らかの関連性をもって実施されることはあっても、文字自体がテキストと一体化しているとは言い難い。すなわち形態としての文字にはテキストの構造は反映していないのである。

 

「地図」はどうだろうか。これは「位置」という情報を記号化したものである。したがって、それは三次元の世界を二次元に表現するという形態の変換を行っているとはいえ、位置情報(航空写真のようなもの)を単純化することで記号化が行われている。すなわち、「地図」はその中に対象物の位置という構造を保持して存在しているものであると言える。

 

「楽譜」になると話はもっと複雑になる。「音の構造」が楽譜に現れることは少し楽譜を読み慣れれば誰しも感じることである。ネウマ譜から五線譜に至る西洋式の楽譜は二次元の各軸に音の高さと発音のタイミングが示されているが、これは音の構造をそのまま視覚的な構造に変換したものである。これに反して「数字譜」とか「タブ譜」などを見ると、「文字」の場合と同様に各音符の特性を認識してしまうと、改めてそれを「鑑賞する」ことはかなり難しい。これは音楽の構造がその種の楽譜の視覚的構造と乖離しているからである。

 

このように、五線譜には音楽自体の構造(音の構造)がそのまま楽譜の構造となって表現されている。楽譜が「鑑賞」に耐えるのはそれ故である。もちろんそれには理由があるのであって、それは西洋音楽が音程、リズム等の各要素において高度な分節性を有しているということに由来している。「地図」の場合は対象物と記号の対応関係がストレートで、「縮小する」という機能のみが前面に出ているが、楽譜の場合は視覚的対象で聴覚的対象を表現するという「文字」に近い機能もある。かつ五線譜という特殊な形態はそれが使用する「音階」「調性」などをも規定しているという点において単なる「グラフ」のようなストレートな構造ではないところが、限りなく興味を惹くゆえんである。

※数年前に偽作事件で有名になった「S氏式ダイアグラム」は、このような意味においては一種の非常に大まかな「楽譜」であったと言うこともできる。

 

このように、楽譜の造形としての美しさは必ずしも音楽の美しさを保証するわけではないが、反対に美しいと思う音楽の楽譜を繰り返し眺めていると、楽譜の放つ「光」が視覚から感じられることを否定することはできない。それは私に言わせれば、音楽の構造が楽譜の構造として認識されることを意味しているのだが、そういう「美しい」楽譜の典型として私がこよなく愛するのはモーリス・ラヴェルの繊細極まりない楽譜像である。

 

「音符の楽園」と命名した本ホームページであるが、私にとって楽譜とは、その中で「音」=「音符」が、自由にしかし互いの調和のもとに戯れる楽園のようなものであり、その汲めども尽きぬ魅力については、本ブログ上で引続き語っていきたいと思っている。

 

 

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