2026年 新年あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお付き合いのほどお願い申し上げます。
あっという間に1年が過ぎ、気が付けばブログを書いたのは昨年の正月1回のみ、という有様です。
その昨年の年初の抱負は「今年はいろいろな方面で断捨離を実行して時間を作り、一番やりたいことだけに集中する」というものだったのですが、現実はこれと正反対の方向に進んでしまいました。
皆様のご厚意のお陰で同窓会関連や音楽関連のお付き合いの幅もますます広がる一方で、地区町内会のお世話の負担も重く、その上暇も金もないのに海外旅行に行くなど、昨年後半にかけては首が回らないほど忙しい時期が続きました。おかげで私としては一番肝心の「既刊電子書籍の改訂作業」はほとんど手付かずという状態になっております。(その間もアイデアだけは増え続けていて、それをすべて書き込むとどんな内容になるのか、自分でも予測がつかない状況です。)
というわけで、私の今年の抱負は何よりもまず町内会関連の仕事を整理し、その他もろもろの活動の増大を極力セーブして空き時間を有効活用し、改訂作業にまい進するという、昨年の計画と大して変わり映えのないものになりました。と言っても交遊のある皆様との絆は私にとって何よりも大切なモノであり、お声がけいただくことは今年後期高齢者となる私のボケ防止のためにも必須ですので、本年も何卒お見捨てなきようお願い申し上げます。
最後になりましたが、皆様のご健康とご多幸を心よりお祈り申し上げます。
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年賀のご挨拶は以上で、以下は当サイト本来の音楽ブログに戻ります。しかもあまり目出度い話題でもないので、ご興味のない方はスルーしていただきますようお願いします。手持ちのブログネタはそれなりにあるのですが、新しい話題はできれば改訂中の本の方に盛り込みたいので、今回あまり深堀りはしません。
また新年になった。今年は後期高齢者になるのだが、なったところで何か良いことがあるわけでもなく、企業年金が減額になるだけだ。松の内にすべき話でもないが、一休宗純の「門松は…」の歌がふと頭をよぎる昨今である。
一昨年心筋梗塞を患って以来心不全があまり改善せず、少し歩くと足が疲れるのに比例して、頭の方も気のせいか、深く集中してものを考えることが困難になってきたような気がする。その意味でも、まだ少しでも頭が働くうちに言いたいこと、書きたいことをアウトプットしておかなければと焦りが募るばかりである。
ところで、齢を重ねることに伴う最大の悩みの種が目や耳の老化だ。私の趣味はご存じの通り音楽なのだが、聴力の低下は深刻で、健康診断の度に高音が聞こえにくくなっている。ドビュッシー「牧神の午後」の最後のサンバル・アンティークの「チーン」が聞こえないとか、メンデルスゾーンのバイオリン協奏曲のカデンツァで、高音に上がっていくフレーズの最後の音が聞こえないとか、そういった悩みは枚挙にいとまがない。さらに、以前にブログに書いた「絶対音感が狂う」という状況もある。
こうした耳の物理的老化と並んで、「聴く」能力に関連して「音を認識する」能力もどうも低下している塩梅である。先日頼まれてポップスを耳コピで編曲していた時に、転調した先がピンと来ずに苦労したのだが、そういうことは今まであまりなかったように思う。まあ、ポップスも昔と違って例外的な転調をするケースが多くなったということかもしれないのだが、耳の問題以上に音や和声を認識する脳の機能の方に問題が出ているのではないかというのが、最近の心配事だ。
ところで、音楽ではないのだが同じ「聴く」能力に関連して「他人の話が頭に入らない」という症状もある。特に声に力のこもらない話し方(女性に多い)や英会話などを聴く場合に、「音としてはそれなりに聞こえているのだが、頭に入らない」という状況が多くなっている。これも耳の問題というよりは脳の問題(あるいは意識の問題?)だろう。他人の話を聴くときに、何の話かが頭に入っているか否かで理解の容易さが全く異なる。私は外国語のヒアリングが正直得意ではないのだが、最近アメリカのSNSの動画で料理を作りながら英語で説明をするのを見ていると、ほとんどの単語が明確に聞こえて頭に入ってくる。これは有る意味で動画が言葉の認識を支援しているということだ。そのように状況が設定され、自分と相手の間で話題を共有できているという確信があれば、多少音としてははっきり聞こえなくても話についていくのは困難ではない。
よく取り上げられる「カクテルパーティー効果」もこれと類似の問題である。我々はいろいろな音に囲まれて暮らしているが、自分に関心のない音は無視することができる。場合によっては音が鳴っていることすら気が付かないこともある。しかし、一旦音の由来や情況が分かり、それに対する関心が生じると、継続的にそれに集中して話についていくことができる。(最近は老化によって、集中を維持することも難しくなっているような気がするが…)
このように、我々の脳はどこかで「音の種類」による交通整理を行い、必要な情報のみを処理したり記憶したりする方に自動的に送り込んでいるようである。しかしながら、私の場合他人の言葉の理解に困難を感じることが多くなっているのに比べ、音楽は上記の通り一部の音が物理的に聞こえにくくなっていたり、耳コピにやや支障が出ている気はするものの、老化が音楽の理解をさほど妨げているように思わないのは何故だろうか。
まず、双方の情報の種類が異なるという問題がある。会話の情報は内容によっては対処を要するもの(私の用語では「生存活動」上の情報)であり、音楽はある意味聞き流してもよいもの(私の用語では「余暇活動」上の情報。カント的に言えば「無関心」が前提の情報)である。言語を処理する中枢とイメージを処理する中枢では機能の局在があると言われ、後者は「正確性」より「包括的な属性把握」を行うということらしい。かつては「右脳・左脳」というような素人向けに分かりやすく割り切った話があったが、現在はそういう単純な局在理論は否定されているようだ(それでも一応言語や論理はやはり左脳優位で処理されるということになっているようである)。いずれにせよ言語情報と音楽情報とではある程度処理する部位が異なるということはありそうである。
この結果、言語と音楽を比べると、言語においては文法というおおまかなルールに従いさえすればさまざまな要素(単語など)の組み合わせが可能である。これは言語が外部世界との対応によって成立している以上、その無限の可能性に応ずる必要があるためであり、「対処」が必要な情報を構成するには当然の条件であると言える。
これに対し音楽においては自律的に情報が構成されることが前提であるため、和声法とか対位法とか音の構成をガチガチに制約するルールの存在が必須になる。音楽においては参照すべき外界情報は基本的になく、音の構造の認識だけが音楽を成立させている。この場合、言語のように「話題」や「情況」の支援がほとんどないため(「標題」「脚本」などという支援が行われることがあるが、本来的ではない)、これらのルールは明瞭かつ堅固であることが必要であり、それに慣れて初めて「音楽の認識、理解」というものが成り立つわけである。(もちろん、そういうルールに慣れて容易に音を認識することができるようになれば、今度はルールを破ることが面白くなるという状況がある。)このため、われわれは個々の音を個別に迅速に認識することができなくとも、ルールに従った音の配置を予測しながら(場合によっては裏切られながら)フレーズを「個体」として認識することができる。
これに関してまだまだ語るべきことは多いが、それは今後既刊本の改訂の方に回すことにし「老化」の話題に戻ると、遺憾ながら「言語」に関しては、様々な新しい情報を集中力をもって頭の中で迅速に整理し対処することが次第に難しくなっていることは間違いない。それに対して音楽については身に着いた西洋近代音楽の語法(これは特別に専門の和声法や対位法を勉強しなくても、ほとんどの現代人は身の回りに溢れる音楽によって身に着けていると言える)に従っている限り、音の構造を理解することが容易である。上記のように「個別音の認識」ではなく「音情報の統合」すなわち、余分な部分を切り捨てて情報の関係性を整理し全体を把握する能力は、「年の功」という言葉もあるが加齢に伴ってむしろ向上する可能性もあるのではないかと、根拠はないものの信じているところである。
障害によって「失音楽」という状態になる人もいるとのことであるが、介護施設のデイサービスで懐メロが唄われているのを見る限り、老齢によって必然的に音楽が理解できなくなるという心配もなさそうである。
(もちろん、私はモーツァルトやベートーヴェンだけを聴いて余生を過ごす気は更々ないので、新しい音楽にも引続きチャレンジしていきたいのだが、現代の音楽には「言語中枢」でしか評価できないようなものも存在するので、音楽を聴くための頭の体操も必要なのかもしれない。)
上記のように、加齢によって失われる能力もある一方で音楽の楽しみにプラスになる部分もあるかもしれないという希望を持ちつつ、これからはあせらずじっくりと物事に取り組むことに専念して行ければと思っている。そんなわけで、話をしていてピンと来ず、何度も聞き返すようなことが増えてきても、皆様のご理解をいただいてなおも前向きに生きていきたいと思っているので、これからもよろしくお付き合いをお願いいたします。

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