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「暇と退屈の倫理学」(1)

<最近読んだ本>

「暇と退屈の倫理学」 國分功一郎著 新潮文庫

 

私の発明した概念で「余暇活動」というのがある。拙著で解説しているのだが、残念ながら拙著を通読いただいた人数も片手で数えるほどなので、ここで再度説明させていただく。これは早い話いわゆる「文化行動」とほぼ重なる概念で、人間が生きていくために必要に迫られて行う行動(拙著の中では「生存活動」と呼んでいる)以外の活動を言う。

 

私の永遠のテーマである音楽は典型的な人間の文化行動と言っていいだろう。なぜこんな用語を発明したかというと、「文化行動」という言葉は何らかの「文化」らしきものの存在を前提としているように誤解される危険性があるからである。例えばテレビのお笑い番組を見ながらカウチポテトを決め込むのは「文化」だろうか?(私など年末年始は必ずこのパターンだが。)あるいは、れっきとした文化である「音楽」を演奏する音楽家の仕事は紛れもなく「文化行動」だろうが、本人は「生存のため」にやっているのではないか?「文化」という言葉はすべてそういうものを含むのだと言われてしまえばそれまでだが、そういうグレーな部分の存在を考えて、私は本人の意識の上で生存と切り離された行動を「余暇活動」ということにしたものである。

 

この「余暇活動」は、残念ながら拙著を一部でも読んでいただいた方々の中で非常に評判の悪い概念である。特に音楽が典型的な余暇活動であるなどと言うと、「音楽をそのように、たかが暇つぶしの対象と見るのは不愉快だ」といった反応が返ってくる。日本人はSS型の遺伝子を持つ人が多く、いつも不安を持ち緊張していて「一生懸命」であることに価値を見出すという研究結果がある。したがって、音楽もやる以上は命を懸けてやるぐらいでないとダメだ、という感覚を持つ人も多いのだろうと思う。逆に、音楽嫌いの人から言うと、音楽なんかにうつつを抜かしてどうする、ということになろう。

 

ところが、最近本屋で見付けたのが上記の本である。文庫本の表紙に「2022年東大・京大で一番読まれた本」とデカデカと書いてあって、電車の中で読むのが気恥ずかしいが、内容を読むとなるほどと思うことが多く、ベストセラーになるのもうなずける。逆に「真面目」な人からすると、こんな本が売れるようでは日本の未来は…とか錯覚しそうなのだが、そういう本ではないことは間違いない。直接音楽に関係の薄いテーマも含まれているのだが、自分の備忘録を兼ねて本書の概要を以下記載するので、すでにお読みの方は流し読みしていただきたい。

 

そもそも生存活動の必要がなくなれば暇ができる。飼われている猫を見ていると年がら年中寝ているようだが、それは餌を取るのに頑張って活動する必要がないからである。その場合猫なら寝ていればいいのだが、人間の場合は「退屈する」、すなわち、何かをせざるを得ない衝動が生まれる。その場合できた暇で「好きなことをする」ということになるのだが、これが簡単な話でないことを本書は詳しく述べている。

 

本書の順番とは異なるが、まずなぜ人間は退屈するようになったかという問題が第2章に置かれている。本書はここで西田正規の提唱する「遊動生活」から「定住生活」への移行が退屈の源泉(かつ様々な文化の源泉)であるという考え方を紹介する。

これは拙著の第1章の内容とも一部被るのだが、定住生活をする人間は遊動生活をする人間が生存活動のために常に使用していた脳の様々な機能を使用しなくなる。遊動生活を送っていた人間には、このような機能を使用する負荷が快感として備わっていた。定住生活をする人間にも、その代替物が必要となる。これが、人間が退屈し、退屈しのぎを求める理由である。

 

続く第3章と第4章はそうして生じた暇がどのように分配され、消費されるかについて記述されている。第3章では、「暇」は国家や身分など社会制度の成立によっていったん大衆から奪われ、暇つぶしも「有閑階級」の独占するものとなるが、近代の工業化の進展によって結果として大衆に今まで以上の暇が与えられる。この結果暇つぶしの手段を持たない大衆に対して商業的に欲望を次々に作り出す産業が発達する。

 

第4章ではさらにその延長線上にある「疎外」がテーマとなる。ボードリヤールは浪費と消費を区別する。「物」は浪費できても限界があるが、「意味」「記号」は消費に限界がない。「物」を贅沢に浪費できるのは豊かな社会であるが、消費社会は常に消費過剰(満足のない状態)になる。暇なときに何もしないのは罪であり、何らかの形で「消費」しなければならない。こうして消費が退屈を生み退屈が消費を生む悪循環が生ずる。このような状態を著者は「疎外」と呼ぶが、疎外を生むような状況は「本来性」(本来あるべき姿、例えば「労働」に絶対の価値を置くような考え方)と結びつくことにより意味を変質させる。著者は労働に積極的な価値を付加しようとするヘーゲルやハンナ・アレントに対し、ルソーやマルクスを引用しつつ彼らが「労働しない時間=暇」への積極ないし中立的評価を示したと考えているようである。この章はなかなか難しく、私の理解がどこまで正しいかは保証の限りではないのだが、第3章や第4章は音楽史とも並行して読むとなかなか興味深い記述ではある。但し本ブログ本来のテーマとはやや離れるので、これ以上の詳細は省略したい。

 

それで、話は元に戻って暇つぶしの問題であるが、これに関する考察が冒頭の第1章に置かれている。まず出てくるのはパスカルである。パスカルは、暇つぶしにウサギ狩りに出かけようとしている人にウサギをあげたら、その人は喜ぶのかという問題を呈示する。それは欲望の対象(ウサギ)と欲望の原因(退屈)を取り違えているからだ(別に腹が減ってウサギが食べたいわけではない)。まあ生存活動でないのだから、欲望の対象は何でもよく、気晴らし、すなわち熱中できる対象であれば何でもいいということになる。しかしその欲望の対象を手に入れてしまうと、そのプロセスはそこで終わってしまい、次の対象を求めなければならなくなる。したがって、そういう気晴らしに継続的に熱中するためには欲望の対象が得難いものでなければならない。すなわち人間は気晴らしのためにわざわざ(安全が確保された状況下で)苦しみを求めることになる。(これは私の考える「音楽の条件」に非常に近いものである。)

 

パスカルに言わせると、それは「神に対する信仰」によって解決される。すなわち「神に近づく」ことは困難の最たるものであるから、終わることのない試練であるということができる。しかしもちろんそういう超越的なものを失った現代人には縁遠い考え方であると言わざるを得ない。

バートランド・ラッセルは「幸福論」において、熱意を持って取り組める課題を持つことが幸福であるということを主張する。そのためには興味の範囲を広く持って、そういうものに触れ、取り込めるように努めるということになる。著者に言わせればこれは結局欲望の対象であるウサギを入手することが幸福であるということと何ら変わりはない。

また逆に、スヴェンセンという哲学者は「退屈の小さな哲学」という著書で、「(平凡でない)充実した人生を送る」ことこそ人生の幸福であるという「ロマン主義的」な考え方が問題をこじらせていると主張する。そうすると普通の人生が退屈であるのは仕方のないことであるという結論になり、あまり力づけられるような話にはならない。

 

第5章が、著者が本書の核心と考えるハイデガーの退屈論に充てられている。ハイデガーの「形而上学の根本諸概念」によれば、退屈の形態は3つある。第一は「することがない」退屈で、乗り継ぎの列車を待っている間の手持無沙汰が例として挙げられている。第二は「楽しい中に現れる退屈」で、会食に招かれておいしい食事をいただき音楽を聴いて楽しく談笑した後にふと感じるような退屈とされている。第三は「なんとなく(理由もなく)退屈だ」という、なんとも形容のしようもない、ある意味最も深い退屈である。

 

第一は普通に人の考えるような退屈であるのに対し、第二は「十分に退屈しのぎをしているのに退屈だ」、というなかなか難しい状態である。さらに第三になると退屈の対象すらわからない謎の退屈である。本書の記述もなかなか読み解くのが難しいが、たぶん第二の退屈は「退屈しのぎをしているつもりなのに何か満足できない」ということであり、第三に至っては日常生活そのものに退屈が潜んでいる「アンニュイ」な状態、意識の向かう方向性のない状態と言ったらいいだろうか。

 

本ブログのテーマから言うと最大の問題は第二の退屈である。なぜおいしいものを食べ音楽を聴いて楽しく談笑しているのに退屈なのか? それすら退屈であれば退屈しのぎの方法がないではないかと思うのだが、多分そういう問題ではない。私は音楽こそ非常に強力な「退屈しのぎ」、人間の心を奥底から動かす対象であると思っているので、音楽でしのげない退屈があるのは問題である。それは私に言わせると、その「退屈しのぎ」の中身こそが問題であるということだ。

 

それについては著者の考えを含め、後ほど検討したいが(次回に記載する)、いずれにしてもハイデガーは「正しい退屈しのぎ」について「自由であることを認識し、決断すること」であると言う。私は哲学には全く造詣がないのだが、このあたりのイメージはいかにもハイデガーらしい発想である気がする。ハイデガーの用語を使えば、第三の退屈は、退屈というより「実存的不安」に近いもののようであるし、第二の「退屈」はそれが暇つぶしで覆い隠されていることによる「頽落」の状態を指しているようだ。そうしてそれを解消するには「投企」によって自分の道を切り開くしかない、というのがハイデガーの「退屈論」の正体だと思われる。

 

すなわち、第三の退屈はすべての人間に共通の生の悩みを表しており、第一の退屈は何か退屈を解消するようなイベントを待機しているためそれが隠されている状態、第二の退屈は退屈しのぎによってはカバーしきれない状態を指しているようである(特に、第二の退屈が「招待されて暇をつぶしている」という受け身の姿勢であることが問題のように思われる)。さすがにここまでくると、退屈しのぎも簡単ではないという気がするが、それではどのようにして何を「決断」するのかということになると、明確な話が出てくるわけでもないようだ。

  

この後、この状況を打開するための著者による処方箋と、それが音楽とどのように関連するのか、私の考えを述べたいが、かなり長くなったので残りは次回に回すことにする。

 

 

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コメント: 2
  • #1

    小畑正明 (木曜日, 11 1月 2024 09:32)

    面白かった。ハイディガーの「退屈論」なるものを初めて知ったが、いかにも彼らしい実存的退屈論で、印象的だった。
    余暇あるいは暇と退屈は等価ではないので考察に注意を要すると思う。続きは後半をよんでから。

  • #2

    LazyFiddler (木曜日, 11 1月 2024 10:58)

    そうですね。暇であれば必ず退屈するか?は、「なぜ退屈するのか」という問題と関連しています。著者の考え方は次回に記載していますが、私としてはある意味「暇つぶし」という言葉の語感の悪さをどう考えるか、ということになるような気がしています。また次回もご覧ください。