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東大寺お水取り

昨日NHK-BSテレビを見ていたら、東大寺お水取りの実況中継をやっていた。例年であればお水取りは二月堂に観光客が押し寄せるのだが、コロナの状況下関係者のみで粛々と行われるということなので、取材には絶好の環境である。私はかつて知人の紹介で堂内の行事次第を見せていただき非常な感銘を受けたので言うのだが、クラシックでもポップスでも音楽を聴いて感動を感じる人は、是非一度これに接していただきたいと思う。そのためにはこの番組は恰好のものである(他にCDなども販売されている)

 

そう思うのは、お水取りが全編一大音楽ページェントだからである。宗教行事を音楽として見るのは偏った見方かもしれないが、西洋のミサやオラトリオを挙げるまでもなく、多くの宗教行事は音楽と一体となっている。多分西洋に生まれると、多かれ少なかれ西洋近代音楽のスタイルに従ったものしか聞かずに一生を過ごす可能性もあるだろうが、幸い私は日本に生まれ、民謡、俗謡、謡曲といったものに僅かでも触れながら育ったので、若干でも音楽の様式に対して広い感覚を持つことができている。このように世界に様々な音楽があることを知ると、音楽を把握する方法は西洋古典的なメロディ・リズム・ハーモニーだけではないことがよくわかるのだが、特にこのお水取りは、奈良時代以来一年も絶やすことなく同じ形式が守られていると言われ、中国・インド・ペルシャなど様々な要素が含まれる豊かな音楽の沃野であるらしい。(以下、以前にFaceBookに掲載した内容と同じなので、お読みいただいた方はスルーしてください。)

 

ご存知と思うが、お水取りは東大寺の修二会(2月に行われる法会)であって、十一面悔過法すなわち十一面観世音に懺悔する行法である。お水取りと呼ばれるのは、若狭国から空間をワープして送られてくるお香水を境内の若狭井から取る儀式のためだが、そのための事前の準備期間に加え本番も2週間にわたって行われる大規模かつ複雑なものである。お水取りで有名なのは何と言っても火の粉を撒き散らす大松明だが、これは実は上堂する練行衆の足元を照らし、終わった後火を消すために松明を振り回す作業であると言われている。

 

その後も日付が変わる深夜まで行法が続く。その迫力は現地で臨場感を味わうのに勝るものはないのだが、一般に仏教行事と言うと「辛気臭い」というイメージが先行し、経典も呟くようで何を唱えているかわからないようなものを連想するが、お水取りの音環境はそのようなものとは全く異なる。例えば咒師の読誦はオペラ歌手のアリア顔負けの朗々としたもので(実際にオペラの修行をした人もいるとのこと)、祈りの気持ちがダイレクトに伝わってくるようだ。

 

活気を感じさせる行法らしく当然「リズム」も非常に重視されていて、有名な「青衣の女人」が出てくる過去帳の読み上げも、緩やかな出だしから始まって段々アッチェレランドし、最高潮の段階では変拍子の連続で、まるで「春の祭典」とかコープランド作品とかのような心地よいグルーヴ感がある(事実、時期的にも「春の祭典」である)。「南無観世音大菩薩」の合唱も繰り返されるうちにどんどん短縮され、「南無観、南無観、南無観」とリズミカルかつ熱狂的に繰り返されるあたりは、オルフの「カルミナ・ブラーナ」そのものだ。

 

リズミカルということで言えば、打楽器的な音も堂内に満ちている。練行衆たちが「差し懸け」(下駄)を履いて須弥壇の周りをばたばたと走り回る「走り」という行法も、それに続いて行われる「五体投地」も激しい音が印象的である。五体投地は体を一瞬宙に浮かせて「五体板」に打ち付けるのだが、この「五体板」には音響効果も考えられているのではないかと思わせるほど、気持ちの良い(する人は痛いだろうが)乾いた音がする。

 

楽器についても、法螺貝というと「出陣の合図」といったグリサンドから入るものをイメージしがちだが、ここでの法螺貝の吹奏は明確なピッチを持ち、ロングトーンやスタッカートで奏される。特に第3倍音と第5倍音が明確に聴かれたが、閉管楽器なのだろうか? 法螺貝にせよ経文のメロディにせよ、ここで聴かれる音律は日本民謡などに見られる「旋法的・四度テトラコルド的」行き方と異なる「倍音的・五度的」あるいは「中国的・大陸的(?)」の気配がある。またその合間に鳴らされる金属製打楽器(鐘や鈴)の響きもいかにも異国的な趣である。

 

 

どうも我々は仏教というと、江戸時代の檀家制度に拘束され活力を失ったものを想定しがちだが、お水取りの行法はそのようなものとは無縁で、「この行法によって民の苦しみを救う」という気合を今に伝えているような気がする。(実際に練行衆がそういうことを考えているかの問題ではなく、また今の仏教が葬式仏教に堕しているとか言いたいわけではない。)そのためにはあらゆる手段を動員して力強い祈りが行われ、その手段の中に「音楽」が重要な地位を占めていたことが「お水取り」に臨席することにより気づかされる。私は自分の音楽論の中で音楽を「余暇活動」などと表現して、本気で音楽をやっている人の反感を買っている可能性もあるが、音楽が人間の心身に根源的な影響を与えることは強く信じるものである。「全力で取り組まれている」ものを見ると、見ている方にも集中力が高まるものであって、「お水取り」という巨大な音楽ページェントには特にそれを深く感じる。