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現代音楽史(中公新書)

 

<最近読んだ本>

「現代音楽史-闘争し続ける芸術のゆくえ」沼野雄司著 中公新書

 

現代音楽を通観するコンパクトな本というのはありそうで意外とない、という実態からこの本が書かれた、ということなのだが、確かにこの話題で代表的な一般向けの本となるとなかなか難しい。「需要が少ない」「分かりにくい」「すぐ時代遅れになる」とか、いろいろな問題があるものと察せられる。

 

その中でこの話題に本格的に切り込んだ本書の意欲は大いに評価できる。しかも新書なのでコロナで外出禁止の時期に半日で読める手軽さもありがたい。従来現代音楽の本と言うと、個別の作曲家の伝記や作品紹介、作曲家本人の思想について記載したものなどがほとんどだったのだが、どういう訳か最近「無調の誕生」(柿沼敏江著)その他、このジャンルを通観するようなものがぼつぼつ見られるようになってきた。

 

それはなぜかということがそもそもの問題だ。ここに描かれた「現代音楽」とは、20世紀初頭に「無調」「不協和音・騒音」「音列」などを合言葉として開始されたジャンルをいう訳だが、そういう創作が始まってからもう100年もたっているのに、そのような作品はいまだにれっきとした「現代音楽」であるらしい。私の見るところでは、ストラヴィンスキーとかバルトークとかいった個人名はCDショップあたりでは既に現代音楽というラベルを外されていると思うのだが、いずれにせよ何かこのあたりに音楽の伝統に対する断絶がある、と多くの人が認めるものがあるらしいのだ。

 

それで、今このような本がやっと作れる情況になったということは、「現代音楽」というものを客体化し、包括的にとらえることのできる情勢が整ってきたことを意味する。この本に次々と出てくるように、現代音楽というジャンル(音楽だけでなく美術なども同様だが)は目まぐるしく様々な様式が登場し、それを整理しているうちに次の様式が登場するといった「雨後の筍」状態がおさまって、やっと全体を掌握して総括できるようになった、ということではなかろうかと、私は考えている。またこれはいろいろな「手法」に出尽くし感があり、作る方にも聴く方にも「新しいモノ疲れ」があるのではないかと感じられる。

 

さて本書の内容は、シェーンベルクの弦楽四重奏曲第2番、「春の祭典」、ヴァレーズの「ハイパープリズム」の3つの作品の公演が巻き起こしたスキャンダルからスタートする。ということはその前にある印象派あたりの作品は現代音楽ではない、ということなのだ。ドビュッシー作品なども「前奏曲集」「練習曲集」とかになると結構無調っぽいし、サティの多くの作品などある意味無調と言っていいのだが、どこに「現代音楽」の線を引くかはなかなか微妙な問題である。

 

そこで著者は、現代音楽の定義は、作者が聴衆の存在を前提としていない点にあると考えているようである。「当然ながら、芸術はそもそもからして民衆のためのものではない」というシェーンベルクの言葉はなかなか重い。どうしてこういう作品が存在できるようになったのだろうか。これらの作品を作った作曲家は飢え死にしたわけでもなければ、皆がみんなアイヴズのように稼ぐ必要のないアマチュアであったわけでもない。現に「春の祭典」は興行主ディアギレフの思惑通り大スキャンダルになったのだし、新ウィーン楽派の作品にも「私的演奏会」の聴衆はいたのである。

 

こういう、伝統との連続を前提としない聴衆はなぜ出現したのだろうか。多分自己表現を推進する作曲家も好奇心に動かされる聴衆も、いつの時代にも存在するだろうが、この時代に出現した「現代音楽の聴衆」はその前のめり具合に特色がある。それは「いままで抑圧されていたものが解放された」ということであり、かつそれが「潮流」としても世間から(ある程度)是認されたということを意味する。それは「音の形式(構築様式)が受け手に認識されることは音楽の必須事項ではない」という思想である。

 

この発想は多分、各種の支援手段によっていやでも形式を認識できるように作られ、それ故にポップカルチャーとなった「古典派」から離脱していくロマン派の流れの上で、ある意味究極的にロマン主義的な思想として発生したものではないかという気がする。だから本来時代の流れは決して断絶していないと思われるのだが、「認識されることは必要ではない」という作り手の開き直りと、それによって創造される「実験音楽」によってこの時代は画期される、と言うことができる。

 

そこで本書の中身を見ると、現代音楽史が社会と音楽の関係として記述されている。例えば、全体主義政権下での音楽のありかた、「退廃音楽」の排除や社会主義リアリズムの推進などに関してかなり詳細な記述がある。このような社会とのかかわりから、音楽の「現代」という時代が第一次世界大戦とパリの「五月革命」(1968)によって区切られる「小さな20世紀」に確立した、という著者の主張も実に興味深い。「ワイマール体制」と「ロシア・アヴァンギャルド」が現代音楽の推進役となり、その過程で「数」が音楽の構成原理となる。間に上記全体主義時代を挟んで戦後もこの傾向が持続するが、やがて五月革命の幻滅を機に時代はこのような「出し手の論理」から「受け手が認識できる音楽」に復帰する。一部私の見解を交えて総括すると、本書の見方はおおむねそのようなものではないかと思う。

 

とは言え、私の個人的趣味からすると、音楽史をこのように実社会の影響のもとに記述することによって、音楽の様々な様式の諸相が個別に浮き彫りになる一方、そういう雑貨屋の店先的な記述方法で音楽史の骨格が見えてくるかという疑問は残る。私が夢想する音楽史の流れにおいては、音楽史は音楽を構成する様々な要素に焦点を当てることによって、中世から現代に至る一貫した流れを見ることができるものであって、そこにはいかなる断絶もなく、もちろん「現代音楽」もない(但し「実験音楽」は存在する)。

※このブログを読んでいただいたついでに、私の考える方向性については是非拙著をお読みいただければ光栄です。

 

それにしても、この本には実に様々な作品が解説されており、著者は本書を上梓するにあたってそのすべてを聴きなおしたとのことであるが、その時間的負担は相当なものであったと察せられる。これが古典派であれば、モーツァルトとベートーヴェンの代表作を聴けばある程度その全貌が把握できるかもしれないが、現代音楽のようにその様式が眩暈がするほど分散している状況でなにかを把握しようと思うと、その障壁になるのは「誰の何を」聴けばいいのか、という疑問である。もちろんメルクマールになるような有名作品はあるのだが、多くは「実験音楽」であって、それが200年、300年後に残る傑作なのかは現段階で明白なわけではない。

 

この本には「聴くべき作品」として、私がまだ聞いていない曲が多数挙げられており、こういう情報の提供は本書の最も価値のある部分ではないかと思う。とはいえ昔ならそういう曲のレコードが出ているかどうかも心もとなかったものだが、今ではYouTubeで大抵のものを聴くことができるのは大きな進歩である。だから、本当は「現代音楽」の真価が問われるようになるのは、その手の作品がいつでも聴けるようになってきた現在なのかもしれない。

 

ついでながら初めに述べたように、どういう訳か最近この種の音楽史を通観するような本がポコポコ出てくるので、それをみんな読もうとすると、ブログを書いている時間がない。その間に本業の仕事も入って来て、古稀目前になってこんな生活パターンでいいのかという疑問も頭をよぎるのだが、「ボケ防止」の一言で自分を納得させている現状である。